4章18節〜5章12節

4:18 彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその席から門のそばにあおむけに落ち、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。彼は四十年間、イスラエルをさばいた。
4:19 彼の嫁、ピネハスの妻は身ごもっていて、出産間近であったが、神の箱が奪われ、しゅうとと、夫が死んだという知らせを聞いたとき、陣痛が起こり、身をかがめて子を産んだ。
4:20 彼女が死にかけているので、彼女の世話をしていた女たちが、「しっかりしなさい。男の子が生まれましたよ。」と言ったが、彼女は答えもせず、気にも留めなかった。
4:21 彼女は、「栄光がイスラエルから去った。」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは神の箱が奪われたこと、それに、しゅうとと、夫のことをさしたのである。
4:22 彼女は、「栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから。」と言った。
5:1 ペリシテ人は神の箱を奪って、それをエベン・エゼルからアシュドデに運んだ。
5:2 それからペリシテ人は神の箱を取って、それをダゴンの宮に運び、ダゴンのかたわらに安置した。
5:3 アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、それをもとの所に戻した。
5:4 次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両腕は切り離されて敷居のところにあり、ダゴンの胴体だけが、そこに残っていた。
5:5 それで、ダゴンの祭司たちや、ダゴンの宮に行く者はだれでも、今日に至るまで、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。
5:6 さらに主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人々とを腫物で打って脅かした。
5:7 アシュドデの人々は、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。」
5:8 それで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか。」と尋ねた。彼らは、「イスラエルの神の箱をガテに移したらよかろう。」と答えた。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。
5:9 それがガテに移されて後、主の手はこの町に下り、非常な大恐慌を引き起こし、この町の人々を、上の者も下の者もみな打ったので、彼らに腫物ができた。
5:10 そこで、彼らは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着いたとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私たちのところにイスラエルの神の箱を回して、私たちと、この民を殺すのか。」
5:11 そこで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部集めて、「イスラエルの神の箱を送って、もとの所に戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように。」と言った。町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。
5:12 死ななかった者も腫物で打たれ、町の叫び声は天にまで上った。



「倒れた者を起こす神」

                           サムエル記第一 418節〜512



ペリシテ人との戦いでの敗北、主の契約の箱が奪われたこと、ホフニとピネハスの死、エリの死 −次々と悲惨な出来事が起こる中にあっても、イスラエルの人々には悔い改めの心、貧しい心、へりくだって神の憐れみを求める心はみられませんでした。ただ神を侮り続け、高ぶる心のみです。

ピネハスの妻の言葉も、結局は自分達の非を全く認めず、全てを神のせいにするような言い方です。シロの神殿の堕落ぶり、夫の罪を思えば、これくらいのことが起こっても当然だと思ってもいいところなのに、私は悪くない、悪いのは神だと言わんばかりの高慢さです。子供が生まれたのに喜んでいるふうでもなく、「栄光がない」という名をつけたり、世話をしてくれた人に返事もせず、神にも人にも感謝の言葉はありません。本来なら家族、民族の罪を自分の中にもある罪として受け止め、痛みを感じ、へりくだって憐れみにすがるべきところなのに、それが少しも感じられません。神が最も忌み嫌われるものは、私たちの高慢です。(詩篇18:27、箴言6:16、ヤコブ4:6、第1ペテロ5:5)

このときから約20年間、イスラエルはペリシテ人の支配のもと、惨めな時をおくることになります。それは、イスラエルの傲慢が砕かれ、へりくだり、低い心にされ、主を慕い求めるようになるまでに必要な年月だったのでしょう。

戦利品としての神の箱を奪ったペリシテ人は意気揚揚と帰り、自分達が崇拝していたダゴン神のそばに箱を置きました。ところが次の日、ダゴン神の偶像が主の箱の前でうつ伏せに倒れ、翌日には胴体が切り離されていたという奇怪な出来事、またアシュドデの人々が腫物で打たれるという出来事が起こったのです。この事を通して、アシュドデの人々は神の力を認めざるを得ませんでした。しかし、だからといって、彼らは決して真の神に立ち返ることはありませんでした。

イスラエルの敗北は、イスラエル自身の敗北であって、神の敗北ではありません。神は生きておられ、偉大な力があるということに何ら代わりはありません。そして神は、アシュドデに対して、ご自分の存在をはっきり示されたのです。

アシュドデの人々は、神の箱を他に移すことにしましたが、移された町でも腫物が人々を襲い、また次の町に移される頃にはうわさが広まり、呪いの箱のような扱いになってしまいました。神の箱の行くところ行くところ、伝染病が広まり、奇怪な出来事が起こったのでは、たまったものではありません。人々の叫びが天にまで上り、結局神の箱をもとの場所に戻そうということになりました。

一時はダゴン神に勝利があったかのように見えても、ダゴン神は、所詮人間が造り出した偶像にすぎません。倒れたら人間が起こしてあげなければ起き上がることも出来ません。

しかし、天地万物、人間を創られた神は、逆に倒れた私たちを起こしてくださいます。私たち人間を支配し、私たちと人格的な愛の交わりを持ってくださる神様です。エレミヤ10:1〜7、11〜16に、偶像の神と、天地万物を創られた神の違いについて書かれています。

本来、この偉大な神を証しするのはイスラエルの役目であるのに、形式だけの神礼拝に陥り、神との人格的な交わりが欠落していたイスラエルには証できなくなっていまいた。

しかし、人が駄目になったとたん、何も出来なくなってしまうような神ではなく、神はご自身をあらわすことの出来る方なのです。偶像や病を用いてでもご自分をあらわされるのです。

私たちは、今、神をどのような方として信じていますか。

ご利益を求め、偶像化していませんか。神よりも優先しているものはありませんか。霊的に鈍くなっていませんか。自分が頑張らないと倒れてしまう弱く、無力な神ととらえていませんか。

間違った神観を正すには、みことばによって神を正しく知り、聖霊の助けによって神を実体験していく必要があります。

人は倒れるけれど、神は倒れません。むしろ、倒れた私たちを起こしてくださる神、しゃがみこんでうずくまっているような私たちを立たせてくださる神様なのです。

一見、敗北と思えるような時にも、神はご自身の存在をはっきりとあらわし、偉大な力と事実を見させてくださいます。聖書に記されている神をはっきり認め、信じてついていきたいものです。

[適応]

@ あなたは、どのようなときに高ぶる傾向がありますか。

A 間違った神観念を持っていませんか。もしあると思うなら、どういうところで持ちやすいですか。











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