7章1〜6節
7:1 キルヤテ・エアリムの人々は来て、主の箱を運び上げ、それを丘の上のアビナダブの家に運び、彼の子エルアザルを聖別して、主の箱を守らせた。 7:2 その箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。 7:3 そのころ、サムエルはイスラエルの全家に次のように言った。「もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。」 7:4 そこでイスラエル人は、バアルやアシュタロテを取り除き、主にのみ仕えた。 7:5 それで、サムエルは言った。「イスラエル人をみな、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために主に祈りましょう。」 7:6 彼らはミツパに集まり、水を汲んで主の前に注ぎ、その日は断食した。そうして、その所で言った。「私たちは主に対して罪を犯しました。」こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。 |
「神を慕い求める時」
サムエル記第一 7章1〜6節
(復習)
イスラエルはペリシテ人との戦いに敗北し、神の箱が奪われ、20年以上にわたってペリシテ人の支配を受けました。
イスラエルの敗北の原因は、どこまでも自分達の力で戦い、主に頼らなかったこと、神の箱を偶像化し、主ご自身を求めなかったことの不信仰にあるといえます。しかし、だからといってイスラエルの敗北は主の敗北ではありません。その証拠に、神の箱が行くところ行くところで人々が腫物に打たれたり、奇怪な出来事が起こり、神は生きておられるという事実を現されました。辟易としたペリシテ人は、神の箱とをイスラエルに送り返すことにしました。
イスラエルの不信仰は、神を恐れる心が鈍くなってしまったためです。神の愛や赦しばかりが強調されると、神の義、聖を軽んじ、侮る間違った方向にずれ易いものです。旧約聖書を読むと、神の義、人間の罪の深さがはっきりと現れています。
私たちは本来、神の前には立ち得ない者なのです。救いを受けるに値しない者なのです。このことがよくよくわからなければ、そのような者のために、命を投げだして贖ってくださったイエス・キリストの十字架の恵みもわからないのです。
1〜2節
神の箱はキルヤテ・エリアムに運ばれてきて、エルアザルが20年間守りつづけました。この20年間は、イスラエルにとってペリシテ人支配下の苦しみの年月でもありましたが、もう一度神を慕い求める方向に変えられていくための時でもありました。
苦しみは、私たちを正常に戻す働きがあります。何が大切か、何を最優先にするべきかということを改めて思い起こさせ気づかせてくれます。
イスラエルの人々は「神様、神様」と言いながらも、現世の御利益を求め、神の箱を偶像化し、主ご自身を求める心を失っていました。しかし,苦しみの中で、やがては滅びて行くものではなく、永遠に続く主との関係を求めたいという神ご自身に対する飢え渇きが培われていったのです。
詩篇23:4で、羊が迷い出そうになると羊飼いがムチで教え、正しい方向に導いてくれるとあるように、神様は時にムチをもってでも、苦しみを通してでも、私たちを正しい道、真理へと導いてくださいます。だからこそ、私たちは安心して、全部お任せしてついていくことができるのです。
3〜4節
20年間は、預言者サムエルにとっても神の訓練の時として必要でした。イスラエルの民の心が神に向けられたとしても、サムエルに預言者としての働きが出来なかったら何にもなりません。反対にサムエルだけが整えられたとしたら、民は彼の言葉に素直に聞き従うことは出来なかったでしょう。両者の心が育てられた20年後が神のときであり、この後に記される大勝利につながる結果となったのです。
主を慕い求める時、具体的に偶像に気づかされます。偶像は、神に忠誠を誓った者が他の神々に手を合わせることですから、姦淫の罪に匹敵します。偶像というとピンとこないかもしれませんが、お金、名誉、能力、趣味等それが神様よりも心とらわれるものであるなら偶像といえます。
しかし、優先順位を神におくように、あるいはそれを取り除くように求められています。神に立ち返ることは、それまでいた所、頼っていたものから、神の方へ方向転換することです。主を慕い求める心がなければ、偶像の存在が、主との交わりを破壊する命取りの問題だと気づくことは出来ません。気づいても認めたくない、それが私たちの肉の姿です。どれだけ主を慕い求める気持ちがあるかをはっきりされる必要があるでしょう。
主との関係を良くしたいなら、偶像を取り除くことに全力を傾けなければなりません。自分の力ではできなくても、主に願うなら必ず助けてくださいます。そして主の勝利のみ業が鮮やかに現されていくのです。
5〜6節
次にサムエルがしたことは、悔い改めの祈りでした。しかも民の罪を自分の罪として悔い改めています。なかなか出来ることではありません。
しかし、同じ罪の根を持つ者としてサムエルは民の罪を自分の罪として主の前に悔い改めたのです。悔い改めは、ただ痛みで終わらず、そこに主の回復の出来事が起こされていきます。高ぶる心を退けて、悔い改める低き心を与えていただきたいものです。
適応
@ あなたは今、主を慕い求めていますか。
A 主との慕わしい関係を妨げているあなたの偶像は何ですか。
B 主との関係を良くするためにどのようにしていきますか。