14章1節〜23節
14:1 ある日のこと、サウルの子ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣のところへ渡って行こう。」ヨナタンは、このことを父に知らせなかった。 14:2 サウルはギブアのはずれの、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていた。彼とともにいた民は、約六百人であった。 14:3 シロで主の祭司であったエリの子ピネハスの子イ・カボデの兄弟アヒトブの子であるアヒヤが、エポデを持っていた。民はヨナタンが出て行ったことを知らなかった。 14:4 ヨナタンがペリシテ人の先陣に渡って行こうとする渡し場の両側には、こちら側にも、向かい側にも、切り立った岩があり、片側の名はボツェツ、他の側の名はセネであった。 14:5 片側の切り立った岩はミクマスに面して北側に、他の側の切り立った岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。 14:6 ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」 14:7 すると道具持ちが言った。「何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。」 14:8 ヨナタンは言った。「今われわれは、あの者どものところに渡って行って、彼らの前に身を現わすのだ。 14:9 もしも彼らが、『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ。』と言ったら、われわれはその場に立ちとどまり、彼らのところに上って行くまい。 14:10 もし彼らが、『おれたちのところに上って来い。』と言えば、われわれは上って行こう。主が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これがわれわれへのしるしである。」 14:11 こうして、このふたりはペリシテ人の先陣に身を現わした。するとペリシテ人が言った。「やあ、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」 14:12 先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちとに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは、道具持ちに言った。「私について上って来なさい。主がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」 14:13 ヨナタンは手足を使ってよじのぼり、道具持ちもあとに続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがそのあとから彼らを打ち殺した。 14:14 ヨナタンと道具持ちが最初に殺したのは約二十人で、それも一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行なわれた。 14:15 こうして陣営にも、野外にも、また民全体のうちにも恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。 14:16 ベニヤミンのギブアにいるサウルのために見張りをしていた者たちが見ると、群集は震えおののいて右往左往していた。 14:17 サウルは彼とともにいる民に言った。「だれがわれわれのところから出て行ったかを、調べて、見なさい。」そこで彼らが調べると、ヨナタンと道具持ちがそこにいなかった。 14:18 サウルはアヒヤに言った。「エポデを持って来なさい。」当時、彼がイスラエルの前にエポデを取ったのである。 14:19 サウルが祭司とまだ話しているうちに、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった。そこでサウルは祭司に、「もう手をしまいなさい。」と言った。 14:20 サウルと、彼とともにいた民がみな、集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士打ちをしており、非常な大恐慌が起こっていた。 14:21 それまでペリシテ人につき、彼らといっしょに陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。 14:22 また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、彼らもまた戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。 14:23 こうしてその日、主はイスラエルを救い、戦いはベテ・アベンに移った。 |
「信仰による勝利」
サムエル記14章1〜23節
“大人数によるのであっても、少人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げるものは何もない。(6節)”
【いままでのあらすじ】
初代の王となったサウルに率いられて、ペリシテ軍との戦いに挑むイスラエル軍が、敵方のすごさに圧倒されて(臆病の霊に取り付かれ)逃げ帰ってしまったところでした。片やサウルの行動には、神を信頼してではなく、民達の心を引き止めるためのパフォーマンスが多かったようです。祭司だけに許されている祭事を行ったり等等。
【今日の箇所では】
サウルとともに戦うイスラエル軍はぼろぼろに弱り、今にもペリシテ軍に占領されきってしまいそうな状況になりました。絶望的な戦いの中では、人は様々な動きをしてしまいます。逃げ出してしまう者、不平を言う者、責任転嫁をする者、自暴自棄になる者、皆意気消沈してしまっています。
しかし、サウルの息子ヨナタンだけは違っていました。神の力を見させていただきたいと心が神に向かい、神への期待が感じられました。
神を信じる人には、その信仰が弱ってしまわないようにと、教会に、個人に、家庭に、試練や戦いが与えられます。そんな状況の中で、これは主の御業をみさせていただくチャンスだと受け取る訓練が与えられます。そこで神をより求めていくのです。
3節〜
エポデ・・・以前の神の箱に代わるもので、この時代、神の指示を仰ぐ手段として用いられていました。これを着けていたアヒヤ(祭司)やサウルや、誰にも言わずにこっそりと、ヨナタンは道具持ちの若者と二人で、地形的にも非常に困難な、無謀とも思えるような所を(相手の先陣のいる場所へ)進んでいったのです。
“たぶん主が我々のために何事かをしてくださるであろう”(これは原文に近い訳です)・・・主への期待と願いがヨナタンにあったのでしょう。“たぶん”と言わなければならないくらい困難な状況であったのだろうと思われます。
私たちにも生きて働かれる神様が、何事かをしてくださることへの希望と信頼が大切です。主に希望をもつ・・・これが信仰です。人数の多寡ではなく、主がお救いになるのに条件はいらないのです。一人の人が主を信頼する力は、何億の人の力にも匹敵します。私たちはそんな偉大な力をもつ神様を信じているのです。聖書には至るところでそのことが述べられています。(詩篇20:7〜8、56:3〜4、9〜10)
9節〜
主のみこころを知るのに、「敵の出方によって判断しよう」「敵が上って来いと言えばその通りにしよう」「神様の指示“しるし”、導きだと信じて」とあり、また従ってきた若者もヨナタンと心がひとつになっています。私たちにもこのようなことや場面がよくありますね。
11節〜
こうして、主を信頼して敵陣に進んでいった二人に神は味方され、地震をも起こして、その偉大な力を示されます。敵も味方も恐れさせ、神を信じる出来事となっていったのです。
17節〜
サウルは、その騒ぎでヨナタンが戦い始めたことを知り、エポデを持ってこさせて、神のみこころを問おうとしますが、ここでもまたパフォーマンス(形だけの信仰)のようです。神の結果を待てずに次の行動を起こしてしまいます。ますます激しくなったペリシテ人の騒動の方へと行きます。そこでは同士討ちの戦いをしています。
師士記7章22節(ギデオンとミデアン人の戦い)でも同士討ちを用いて、勝利を得させてくださった記事があります。また弱いイスラエルから逃げて、敵についていた他のヘブル人の民も、戻ってきて、助っ人(軍)になり、一見勝っているからいるから戻ってきたように思えますが、これも主の業なのです。主とはそのようなお方なのです。
私たちはどうでしょうか。何かことが起こったとき、現状を見て慌てふためき、右往左往してしまうものですが、主が何かをしてくださる時は、天変地変を用いたり、人の心を変えたり、あの手この手を用いて主が勝利してくださるのに、その邪魔をしていないでしょうか。
困ったことが起こったときは主の力が証明されるチャンスです。主を信じて、信仰の勝利をみさせていただきましょう。
質問
@ あなたは、今、主の働き以外に頼ろうとしているものはありませんか?
A あなたは、どのような状況の時に、主がしてくださったことを体験しましたか?
B あなたは、信仰的なパフォーマンスをしていることはありませんか?