サムエル記U 1章
「恨みを消してくださる神」
(1〜10節)ダビデたちがアマレク人から家族や奪われたものを奪回して帰ってくると、
ひとりの男が来てサウル王とヨナタンの死をダビデに告げました。しかしその報告には事実と異なることがありました。サウルは自ら剣を取って死んだのに、この男は「私があの方を殺しました」と偽ったのです。恐らく彼は、ダビデがサウル王から命を狙われて逃亡してきたことを知っていたのでしょう。自分がその憎きサウル王の命をとったと聞けばダビデが喜び、それなりの報酬をもらえると思ったのかもしれません。
(11〜12節)しかしダビデも家来たちも、予想外の反応を示しました。彼らはサウルとヨナタンのためいたみ悲しみ、夕方まで断食をしたのです。かつて2回ダビデがサウル王を攻撃するチャンスがありましたが、その時はダビデの家来たちもダビデにサウルを討つように勧めています。でも「主が油注がれた方に自ら手を出してはいけない」というダビデの命令により、彼らもダビデと同じ思いになっていったのでしょう。
(13〜16節)ダビデにとってサウル王は、どこまでも敵ではありませんでした。「もういい加減にしてくれ」と思ったり、憎らしく思ったことはあったでしょう。でも自ら攻撃していく相手では決してなかったのです。ほめられると思っていたこの男は、逆に主に油注がれたものに手を下したことで打ち殺されることになります。
(17〜23節)サウルやヨナタンの死を悼んで作った「弓の歌」は、重要な文書を収める公文書(ヤシャルの書)にしるされています。ここでダビデは、弓の名手ヨナタンと勇士サウル王を思い出し、2人への敬意を表しています。本来ならサウル王の後に王位を継ぐはずのヨナタンは、神がダビデを次の王として選ばれていることを認め(23章15節〜18節)
ダビデを愛し、父親サウルとダビデの間を仲介しました。本来ならヨナタンもダビデを憎み敵対してもおかしくなかったのです。でも神がそのようにヨナタンにダビデを愛する心を与えてくださったのです。サウル王に命を狙われる苦しみの中で、ヨナタンを通して神はダビデを励ましてくださったのです。そしてダビデはこの歌の中で、「ああ勇士たちは倒れた」と3度繰り返して、サウル王とヨナタンの死を心から悲しんでいます。
このダビデの歌の中に、サウルに対する恨みや批判は全く出てきません。これはダビデが無理しているのではなく、サウルに対して良いことしか思い出されなかったのでしょう。もしダビデの信仰が前のアマレクとの出来事を通して回復していなかったら、この歌もサウルへの恨みの歌になっていたかもしれません。御霊により頼んで歩む時には、神がこのように恨みや憎しみを消し去ってくださるのです。サウル王がダビデを妬み攻撃的になった弱さをも理解し受け入れるように神はダビデの心に働きかけてくださったのです。私たちが自分の思いを生かしていくことに焦点を当てている時、神以外のものにより頼んでいる時には何でも恨みや批判になります。一つ一つ対立していきます。でも自分が弱くされ、御霊の助けにより頼むしかないようにされた時、御霊の取り扱いの中で、恨むよりその人の弱さや状況を受け止めて対立心を主が取り除いてくださるのです。恨みを持ち続けていること、傷を持ち続けていることは、自分の中に剣を持ち続けることで自分自身を蝕み滅ぼしていくのです。うちに剣を持っているなら、その剣で自分自身が滅びていくのです
(マタイ26:52)。自分の中に、そのようなものがあると気づいたら、御霊に対処していただきましょう。時間はかかっても、必ず主は私たちの中にある剣を取り除き、解放してくださいます。あれだけダビデを苦しめたサウル王に対して、一点の恨みも残さずにこの弓の歌をダビデに歌わせた神様は偉大な方です。ハレルヤ!