サムエル記U 11章
「主のみこころをそこなう時」
いつも戦いの時には先頭を歩んでいたダビデでしたが、今回のアモン人との戦いではエルサレムの王宮に留まっていました。昼寝から覚めて屋上を散歩していた時に、ひとりの女性がからだを洗っている姿を目撃し、ダビデは彼女を召し入れました。彼女が月のものの汚れをきよめていた(4節)ことから、妊娠しやすい時期であることもダビデは恐らく知っていたでしょう(レビ15:19、28、13)。そして彼女はダビデの子を宿します(5節)。
その女性が、ダビデの忠実な部下ウリヤの妻バテ・シェバであることを知ると、ダビデは不倫疑惑をもみ消すため、ウリヤが戦場からバテ・シェバの元に帰るようにしむけます(8節)。
何とかウリヤの子どもということにしようとしますが、ウリヤは決して家には帰りませんでした(9〜13節)。
ついにダビデは、ウリヤ暗殺命令を指揮官であるヨアブに出します(15節)。
ヨアブは命令どおり、敵の力ある者たちがいる場所にウリヤを配置し、激戦の中でウリヤは死んでいきました(16〜17節)。
しかしヨアブのミスで町に近づきすぎたためダビデの家来たちも多く死にました。ヨアブはその失敗を責められないように悪知恵を働かせ、使いの報告の最後に「ウリヤが死んだ」ことを伝えるように命じます。案の定その報告を受けたダビデは、本来ならヨアブのミスを責めるところですが、ダビデの一番の目的が達成できたので、逆にヨアブを励ます言葉を伝えています(25節)。
ウリヤの喪が明けると、バテ・シェバはダビデの妻となり男の子を生みます(27節)。
ダビデの思惑通り事が進んでいますが、この章は「しかしダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」という恐ろしい言葉で締めくくられています。思い通りになったから、成功したから、それが神のみこころであるとは限らないのです。ここでただダビデが不倫をしたこと、ウリヤを死に追いやったことという表面的なことを指摘しているだけなら、聖書は道徳の書になってしまいます。むしろここでも問われているのはダビデと神との関係であり、彼のこの時の信仰の問題なのです。遊女ラハブが神に認められ、女ったらしのサムソンが士師に選ばれたのも、信仰によるのです(ヘブル11:31〜34)。
行いも信仰による行いであることが求められています(ヤコブ2:25)。
これまで戦い時にはいつも「行くべきでしょうか」と神にうかがっていたダビデです。しかしここでは神が全く出てきません。戦いの中にいるときは、神に助けをたえず求めずにはいられなかったダビデです。しかし戦いからはずれて王宮で安穏とした生活をしているうちに、霊の目が眠ってしまったのかもしれません。そこからいつしかダビデの心に高ぶりが芽生え、王という立場を利用し、人を人として見ず人格を無視するような行動につながっていったのかもしれません。その根底には、神への畏(おそ)れが失せていったことがあるかもしれません。私たちも、ダビデと同じ罪の爆弾を抱えているのです。世界中で起きる凶悪犯罪も、同じ環境に置かれれば自分だって同じ罪を犯すかもしれないのです。罪の力を知っている者は、人の罪を見て見下すことはできないのです(戒めることはあっても)。今神との関係はどうでしょうか。神への畏れがあるでしょうか。何をするにも神にうかがっているでしょうか。たえず高ぶりを神に砕かれていく歩みをしているでしょうか。私たちはたえずサタンとの戦いの中にあるのです。そのことを忘れないで、神を求めていきましょう。