サムエル記U 12章(1〜14節)


神に喜ばれる最高のいけにえ

1節〜6節(丸囲み)
ダビデはバテシェバとの関係を覆い隠すため、夫のウリヤを激戦地に送りウリヤは死にました。ダビデの思惑通り事は運んだように見えましたが、主は全てをご存知でした。「主が」
預言者ナタンを送り(1節)、この一連の出来事が主のみこころを損なっていることを告げます。
ナタンはダビデの罪をいきなり指摘するのではなく、その実態を受け取りやすいようにたとえで話しました。裕福でたくさんの牛や羊の群れをもっていた人が、旅人をもてなすために自分のものではなく、一頭の子羊しか持っていない貧しい人から取り上げて調理をした例を話します。ダビデはその話しを聞いて激怒します(5〜6節)。

7〜10節
そのダビデに対してナタンは「あなたがその男です」と指摘します。神はダビデに油を注いでイスラエルの王とし、家庭も持ち物も豊かにしてくださいました。それでも足りないなら、神に願い求めれば豊かに与えてくださる神なのに(ピリピ4:19)、与えられたもので満足できず、わざわざ夫のいるバテシェバを奪うためウリヤを死に追いやったことは、貧しい人から子羊を取り上げた男のしたことと同じであることを指摘します。

11〜12節
神はダビデのした罪のゆえに災いをくだされます。即ちダビデの妻たちが白昼公然と他の男(自分の息子)と寝るという出来事がやがて起きます(16:21〜22)。

13〜14節
ダビデは、ナタンの言ったことばを、主からのことばとして受け取り「私は主に対して罪を犯した」と認め、悔い改めます。王という立場を乱用して逆にナタンを処罰したり、何も自分はしていないととぼけることもできました。しかしダビデは、ウリヤに対する罪である前に、まず主に対する罪であったことを認めました。

ダビデが自分の罪を認めて悔い改めたことをナタンは見、また神もダビデの罪を赦されました。しかしその罪の刈り取りとして、生まれてくる子どもは死ぬことになります。

ダビデのしたことは、人間的に見ればサウル王がしたことよりもひどいことをしているようにみえます。しかし神はサウルを退け、ダビデを赦されました。神は道徳を人に教えようとしてはおられません。常にその心を問題にされ、また神への信仰をご覧になります。ダビデは罪の刈り取りをすることにはなりますが、自分の罪を率直に認め心へりくだったダビデを神はこの罪ゆえに退けることはなさらなかったのです。

またダビデはナタンに罪を指摘されるまで一連の出来事を何とも思わずにいたのでしょうか?詩篇32篇をみると決してそうではなかったことが分かります(詩32:3〜4)。神が全てをご存知であることをダビデは知っていました。誰から責められなくても、自分の良心が責めました。そしてその罪を告白して赦された時の喜びがどんなに大きいかを感謝しています。またナタンの罪の指摘のあと、ダビデは詩篇51篇をうたっています。自分の罪を認めてペチャンコにされた砕かれた魂を、神は最高のいけにえとして喜んでくださいます。罪を認める時は痛みが伴いますが、認めきってしまいもう神のあわれみを求める以外に自分の側には為すすべもない状態を神はさげすまれないのです。罪をきよめるのは主の側がしてくださることです(詩51:7)。私たちはただ罪を認めていくだけです。人間の側に罪をきよめる力は全くないのです。神がきよい心を与え、私の霊を新しく造り変えてくださるだけです(詩51:10)。イスラエルの王という身分も関係なく、ただ一人の罪人として神の御前に身を投げ出してうめき叫ぶダビデを、神はとことんあわれんでくださいました。

神は砕かれた魂をさげすまれません(詩51:17)。ダビデがした悪行以上に、ダビデの砕かれた魂を重んじてくださったのです。砕かれた魂を最高のいけにえとして神は受け入れてくださるのです。立派なクリスチャンを演じる方向ではなく、いよいよ罪赦された罪人として砕かれた魂を神にささげていきましょう。人からされた悪よりも、自分の罪にうめき悔いくずおれていく者に神は心を留めてくださるのです(ルカ18:9〜14、マルコ2:17)。


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