サムエル記U 12章(15〜31節)


密室の祈りから生まれる神への信頼

15節
ダビデが罪を認めて悔い改めたことで、神は彼の罪を赦してくださいました。神は罪を認めて神の前にへりくだる者を
赦してくださる方です(U歴代誌34:27)。しかし罪は刈り取らなければなりません。預言者ナタンの言った通り、バテシェバが産んだ子どもは打たれました。

16〜17節
しかしダビデは「どうせ子どもは死ぬ」とあきらめはしませんでした。神のみこころはナタンを通して知らされていたにもかかわらず、ダビデは神があわれんでその子の病気を癒してくださるかもしれないと、祈り続けました。断食をし、部屋にこもって地にひれ伏して神に願い求めたのです。私たちの人生の中でも、このように特別な課題のために祈りに集中する時があります。日常生活を後ろにして、「とにかく主にあわれんでいただきたい」と切に神に叫ばずにはいられない時があります。キリストもこの地上を歩まれた時、そのような祈りをされました(ヘブル5:7)。

18〜23節
食事もろくにとらずに子どものために部屋で祈り続けていたダビデですが、いざ子どもの死を知ると何も無かったかのように礼拝して家に帰り食事をしました。家来たちはその変わり様に戸惑いました。ダビデはとことん祈って主のみこころを受け取ったのです。「神はこんなに祈ったのに聞いてくれない」と不平を言ったり神を呪ったりはしませんでした。ダビデはどこまでも「神は義なる方、私は罪人」という場に立っていました。神のなさる事を正しいこととして従っていきました。「こんなに祈り、こんなに悔い改めたのだから、願いを聞くべきだ」というのは、自分が神になってしまっている心の高い祈りです。とことん祈ってならないことはそれを神のみこころとして受け取って神を信じていくのが信仰です。
パウロも自分の肉体のとげに関して、何度も「取り去ってください」と祈りました。しかしそのとげを持っていることがキリストの力を知る恵みであると最終的には受け取ります(Uコリント12:7〜9)。

24〜25節
ダビデの罪から始まった一連の出来事でしたが、大きな痛みを経験しつつも、神との関係を回復したダビデを神は祝福してくださいました。主に愛されるソロモンを神はバテシェバとの間に与えてくださいます。ソロモンの誕生により、ダビデは神の大きな赦しとあわれみを知ったことでしょう。罪を認めて神に立ち帰るなら、神は限りなく赦してくだるのです。かつての私の犯した罪を一切忘れてくださったかのように、赦し愛を注いでくださいます(イザヤ43:24〜25)

ダビデは、自分の罪の痛みと子どもの病を通して、徹底的に神に向かわされていきました。一人部屋にこもり、人も何もない、ただ主しか見えない中で、思いっきり主に祈り叫んでいったのです。その祈りが、どんな事態をも神のみこころとして受け取る信仰につながっていきました。今直面している課題さえも消え去って、主しか見えなくなるほどに祈りきっていく密室の祈りをしていきましょう。


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