サムエル記U 14章


「神のあわれみを受ける者」   
  Uサムエル14章

@ 神から言われずに情でしたことは、人の目には良いことでも実を結びません。

イスラエルの軍団長ヨアブは、ダビデ王が息子アブシャロムのことで苦しんでいる様子を側で見ていて、何とかしようとテコアの女性を王のもとに遣わしました。かつて預言者ナタンがダビデの罪を指摘する時と同じように、具体的な事例によってダビデの今していることがどういうことであるかを気付かせ、自ら息子アブシャロムを許して呼び戻すようにしむけたのです。

しかしナタンの場合は、神から直接命じられてダビデに伝えたことですが、ヨアブの場合は、あくまでも自分の情によって行動しています。
確かにダビデもヨアブの願いは受け入れましたが、このあとドンドン事が複雑になっていきます。

人の仲介をしたり、誰かを助けようとする時さえも、単に情でするのでなく、本当にそれを自分がすべきなのかどうか、神様に聞いて動くことが大切です。
私たちは、神様から命じられなければ、たとえ自分には良いと思うことさえも、することができないのです。
それが主の弟子です。


A 表面的な美しさや能力が人を幸せにするとは限りません。

アブシャロムは、イスラエルの誰よりも美しく自慢の髪をもっていましたが(25〜27節)、それによって人の心をひきつけ悪に向かっていきます。
そして最後には、彼が誇りとしていた髪が仇となって身を滅ぼしていくのです(Uサムエル18:9〜)。
与えられたものを、自分を誇るため、また自分の欲のために用いていくなら、かえってそれによって苦しむことになるのです。
しかし与えられたものを主のために用いていくなら、神がそれを祝福してくださいます。
またその時には、主から与えられたものであることがいよいよはっきりしてくので、自分の誇りとはならず、むしろ主に栄光を帰していくことになります。


B罪を認めていく者を主はあわれんでくださいます。

ダビデは、罪を指摘された時には潔く認めて悔い改めていきました。
数々の失敗はありながらも、何度でもまた悔い改めて神に立ち返り、そこで大きな神のあわれみを体験していきました。

しかしアブシャロムには、そのような姿勢が見られません。
「もし私に咎があるなら」(32節)と、アムノンを殺害したにもかかわらず、自分は悪くないと思っているのです。
それは、恐らく妹タマルを辱めたアムノンが悪い、またそのことをきちっと叱らず放置した父ダビデが悪いという言い訳があったでしょう。
「人が悪い」としていけば、いくらでも「自分は悪くない」という理屈が作れます。

自分の罪や弱さを認めない人ほど、人を責めていきます。自分の罪を認めたら、自分を保っていくことができなくなるのでしょう。
ダビデは自分の罪を認め悔い改めた時に、限りなく赦しあわれんでくださる神の愛を何度も体験していました。
だから神に向かっていく時には、大胆に罪を認めていくことができたのです。

しかしアブシャロムは、神のそのあわれみを体験していません。
だから人の罪を攻めることで、自分を弁護していきました。
それは神の愛と赦しを受けていく方向とは全く反対なのです。

神は私たちにご自身の「あわれみ」を知らせるために、罪を認めさせるのです。私たちが一時罪の中に閉じ込められるような苦しみを通るのは、いたずらに苦しめることが目的ではなく、神の大きなあわれみを知らせることが目的なのです(ローマ11:32〜33)。

罪を認めることは辛いことですが、その先に神の豊かなあわれみが待っているのです。
「私のどこに咎があるだろうか」と言って、どこまでも罪を認めない方向は、神のあわれみを受けていく方向ではありません。
人を罪人にして自分は罪なしとしていく方向ではなく、どこまでも「こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈る収税人の祈りを聖霊に助けられながらしていきましょう。




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