サムエル記U 15章
「味方が敵に変わるとき」 Uサムエル15:1〜23
@ 情で人の心を盗む罪
アブシャロムは形だけダビデ王と和解しましたが、実際には謀反を起こすために着々と準備を進めていきます。
4年かけて武器や歩兵を集め(1節)、王宮の門のところに不当な裁判の訴えや苦情を言いに来た人々の話しに同情し、今の王と側近は聞いてくれないとダビデ王権を批判します(2〜3節)。
さらに自分が王権をもったなら正しく人々の訴えを取り上げられることを伝えたり、人々に親近感をもたせるように近づいていきました(4〜5節)。
アブシャロムはダビデ王のもとに来る人たちを、ダビデ王に会う前にダビデ王朝の悪口を言いつつ情で自分のもとに引き寄せていき、人々の心を盗んでいきました。
もしアブシャロムが王と一つになって人々の訴えを処理したなら、国の平和のためになったでしょう。
しかしアブシャロムは、神がダビデをイスラエルの王として立てたにもかかわらず、王の地位を奪おうとしていきました。
そしてそのために、人々の心を盗んでいったのです。
クリスチャンは人々がキリストのもとに行くために、人の悩みをよく聞いたり丁寧に挨拶をしたりもします。
それは人を自分に引き寄せるためではなく、キリストに結びつけるためです。
もしも自分にひきつけて人を支配しようとしたり、名誉のためにするなら、人の心を盗んでいくことになります。
それは「盗んではならない」(出エジプト20:15)という十戎に反することなのです。
人の心を盗む目的ですることなら、どんなに良いことに見えても、神様のみこころを損なっていくのです。
A 親しかった者が敵になる時
「昨日の友は今日の敵」という諺があるように、人間関係においては仲間が敵になるようなことが常にあります。
かつてはとても親しかったのに今は口も聞けない関係になっているとか、信頼して話していたのに実は陰口を言われていたということがあります。
ダビデはその切なさを詩篇でうたっています(詩篇55:12〜23)。
そのような不安定な人間関係を通して、私たちは「真に信頼できる方はキリストの神だけ」ということを学んでいきます。
多くの人にとって重荷となっている人間関係をも、「主にゆだねよ、主はあなたのことを心配してくださる」(詩篇55:22)と続けて言われています。
ダビデも、このように味方が次々と敵にかわる辛さを通して、「主にゆだねる」ということを学んでいきました。
主なる神は決して私たちを裏切ったり見捨てたりなさらないのです。
いよいよキリストに追いやるために、このような辛い人間関係を通らされる時があるのです。
(神を信頼するゆえに今神が与えてくださった人々を信頼していくという面もあります。それは神に信頼する信頼とは違います。
神は全幅の信頼をしてよい方ですが、人はどこまでも不完全であることを理解しながら信頼していくのです)
Bあらゆる出来事の中で自分の罪を認めていく
ダビデはアブシャロムの謀反情報が入ると、あっさりとエルサレムを出て行きました。
それはエルサレムを血の戦場にしたくない(14節)という理由もありました。
また息子アブシャロムの謀反ということで、父親としての複雑な思いもあったでしょう。
同時に「神は自分を王位から退けておられるかもしれない」という思いがあったかもしれません。
19節でもアブシャロムのことを「あの王」とすでに呼んでいます。
神はダビデのこれまでの罪ゆえに王位を退かせるため、アブシャロムを新しい王に立てようとしておられると思ったのでしょう。
ダビデは「自分の罪を思うならこの事態は当然のこと」と受け取っています。
ダビデは自分が王として選ばれたことを決して当然とは思っていませんでした。
神がこれまでのダビデの罪ゆえに王位を退けられるなら、それを当然と受け取っていました。
ダビデはこのような困難の中でも神を呪うのではなく、自分の罪を痛んでいきました。
ダビデがあれだけの罪を犯しながらもなおイスラエルの王として神が立てられたのは、彼のこのような心の低さにあったのでしょう。
息子の謀反によりイスラエルのほとんどがダビデの敵となり、側近中の側近アヒトフェルもアブシャロムになびき(12節)、住み慣れたエルサレムから荒野をさまようことになったことはダビデにとって大きな試練でした。
しかしこの出来事を通して、ダビデはさらに神を信頼する者となり、また決して王位から退けられることにもなりません。
神を恐れず、神が立てられたダビデに謀反を起こすアブシャロムは、ダビデにではなく神に敵対する者です。
そして自分の思いを押し通すために人々の心を盗んでいったアブシャロムは、一見謀反に成功したかに見えますが、やがて神に打たれていきます。
一方どうしようもない罪をたくさん犯してきたダビデですが、自分の罪を痛み、どんな災いさえも当然として受けていく貧しい心を神はあわれんでくださいます。
私たちはもともと罪ゆえに地獄に行くべき身だったのです。
それなのに、ただ神のあわれみによって、キリストを信じる信仰だけで罪赦されて天国に入れていただける身分に変えられたのです。
仮に地上でどんな災いにあっても本来文句の言える存在ではないのです。
地獄がふさわしい罪人なのに、ただで赦されたのです。
それにもかかわらず、ちょっとしたことで不平を言うどうしようもない私たちにも、主は忍耐してくださっているのです。
あらゆる出来事を通して、自分の罪を知り、それにも勝る神のあわれみの大きさに感謝していきましょう。