サムエル記U 15章
「泣きながら登る坂道」 Uサムエル15:24〜37
24〜29節
息子アブシャロムの謀反により、ダビデと部下たちはイスラエルを出て荒野に向かっています。
祭司ツアドクとエブヤタル、またレビ人たちは、神がアブシャロムではなくダビデと共におられることを信じ、ダビデの側につきます。
そして神の臨在の象徴でもある神の箱をかついでダビデたちと共にエルサレムを出ました。
しかしダビデは、神の箱をもって彼らがエルサレムに戻ることを勧めます。
それは神様がなおダビデをイスラエルの王として認められるなら、神様が再びダビデをエルサレムに連れ戻されると信じていたからです。
また主のみこころにかなわないから王位を退けておられるなら、主が良いと思われることをしてくださる(26節)と信じ、どこまでもダビデは神の御手に全てを任せています。
王であることにダビデは固執していません。
もともと神が彼を選んで王として油を注がれたのであって、ダビデが王になりたくてなったのではありませんでした。
神が始められたことですから、神の支えがなければできないのです。
ダビデはバテシャバとの不倫、またウリヤ殺害など、自分の犯してきた罪を思うなら王位を退けられても当然と思っていました。
彼がこだわっているのは王であり続けることではなく、「主の心にかなうか否か」であり、また「主が良いと思われることが成ること」でした。
「自分の思いではなく、主が良いと思われることをしてくださるように」これが、主の弟子の願いであり判断基準です。
ダビデは自分の願いや努力ではなく、神の選びにより王となりましたが、アブシャロムはその正反対です。
彼はある意味で地道な努力をし、悪知恵を働かせ、人々の心を盗むために策略をたてて、今謀反を起こしています。
ですからもしアブシャロムが王になったら、それは自分の誇りとなったでしょう。また王であり続けるために、必死であの手この手を使って地位を守ったことでしょう。しかしダビデは全て神様次第でしたので、「主が良いと思われること」に任せていきました。
30〜31節
ダビデは一緒にいた民たちと共に、オリーブ山の坂を泣きながら登りました。
私たちの人生にも、このように泣きながら登る坂道があります。
痛くて悲しくて辛いけど、泣きながらでも登り続けなければいけない坂道があります。
ダビデにとっては、実の息子による謀反であることも辛かったでしょうが、自分の罪や子どもたちの問題を親としてしっかり受け留められなかった結果であることも思い、このような生き方しかできない自分に対する情けなさ、罪の重さをひしひしと感じていたことでしょう。
でも神様は子どものように泣きじゃくりながら坂道を登っていくダビデをあわれんでいてくださいます。
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」(マタイ5:4)とイエス様が語っておられるように、悲しい時は思いっきり神様に泣いていってよいのです。
神様が必ず慰めてくださいます。
悲しんでいるダビデに追い討ちをかけるように、これまでダビデが最も信頼していた側近のアヒトフェルがアブシャロムの謀反に加担しているという情報が入ります。
アヒトフェルの助言がすばらしいことを、ダビデが誰よりも知っていました(16:23)。
だからこそダビデは「アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」と率直に祈りました。
どんなにすぐれた人の知恵も、神の知恵の前には愚かなものとなります。
すぐれた助言をこれまでしてダビデ王権を支えてきたアヒトフェルの助言さえも、主は愚かなものとすることができる方です。
事実その通りのことがこの後起きてくるのです。
32〜37節
ダビデがこのような率直な祈りをした途端、力強い協力者が与えられます。
高齢ですがダビデの良き友でもあった(37節)フシャイがダビデに会いに来ます。
ダビデは高齢のフシャイが荒野の旅をともにすることは過酷であることを配慮し、むしろフシャイがエルサレムに戻って祭司たちと共にアヒトフェルの助言を打ち壊すことを勧めました。
敵だらけと思えるような中にも、神様はこのように味方となって助けてくれる協力者も備えてくださっているのです。
やがて確かに、フシャイの助言はアヒトフェルの助言を打ち壊していくことになります(16:20、17:4〜5、17:14)
まとめ
ダビデの人生の中でも、泣きながら通り過ぎていく坂道がいくつもありました。
特にこのオリーブ山では、自分の罪の結果このようなことが起きたとも考えられたでしょう。
でも自分の罪を認め、どのようになっても神様次第であると全てを神様に明け渡し、どこまでも自分は退いていくダビデを神様はあわれみ再び王として立てられます。
逆にアブシャロムのように、「自分は悪くない、タマルのことで苦しんでいた自分たちのために何もしなかった親父が悪い」といって、どこまでも自分を正当化していくアブシャロムは、やがて自分の知恵と誇りによって滅びていきます。
自らの罪を知るとき、私たちは自分の思いや考えがいかに浅はかであり、罪に染まったものであるかを知らされます。
だから少しづつ自分の思いやこだわりも手放して、「主が良いと思われることをしてください」と願うように変えられていくのです。
悲しみや痛みを通して、私たちは少しづつ神様に明け渡していく訓練を受けているのです。