サムエル記U 16章
「不当な中傷も受けていくダビデ」 Uサムエル16章
1〜4節
息子アブシャロムの謀反でエルサレムを追われ荒野の旅を続けているダビデに、メフィボシェテのしもべツイバが会いに来ました。
メフィボシェテは、ダビデの親友ヨナタンの子どもで、ダビデ王からも特別な恩恵を受けていました(Uサムエル4:4、9:6〜13)。
そのしもべツイバは、荒野の旅で疲れていたダビデたちにとって、とてもありがたい贈り物をもってきました。
しかしツイバには下心がありました。
メフィボシェテがサウル王朝を復興させる野心をもっているかのような情報をダビデに伝えることで、ダビデの信頼を得、自分の立場を有利にしようとしたのです。
疲れていたダビデも、メフィボシェテの意見を聞くこともせず、ツイバの言うことを真に受けてしまいます(後にメフィボシェテがダビデに変わらずに忠実であることを知ることになりますが)。
アブシャロムもそうでしたが、下心をもって、また自分の野心を果たすために人に近づいてくることがあります。
純粋な贈り物か、一見好意と見えるがそこに下心があるのか、今の時代は特に見分ける知恵が必要です。
人の助けや好意も主に聞きながら、ある時は感謝して受け取り、ある時は辞退していくことも大切です。
5〜14節
バフリムで、サウル家の一族(ベニヤミン人)の一人シムイが、ダビデに盛んに呪いの言葉を吐きながら出てきました。
その内容は、「ダビデがサウル家の血を流したから、その罰がくだって息子アブシャロムの反逆を今受けているのだ」というものでした。
サウル家の一族としてサウル王朝が崩壊し、ダビデ王朝となったことへの恨み、妬みが根本にあったようです。
しかしこの呪いの内容は事実無根です。
ダビデは決してサウルを攻撃したことはなく、むしろサウルがダビデを妬んで命を狙っていました。
ダビデは神が油注がれた王に自ら手をくだすことはできないと言って、ひたすら逃げたのです。
またサウル王朝に対しても、滅ぼそうとしたことは一度もありませんでした。
ダビデを呪いながらついてくるシムイに、勇士アビシャイが手をくだそうと申し出ますが、ダビデはそれを制しました。
それは「主がシムイに自分を呪わせておられる」と受け取ったからです。
確かにシムイの呪いの内容は間違っていますが、ダビデが犯してきたこれまでの罪の大きさを思うなら、神が彼の呪い中傷をそのまま受けるようにしておられるとダビデには思われたのでしょう。
その呪いの言葉を受けることで、ダビデは自分の罪を痛み、主の前に身を低くされていきました。
それと同時に、その呪いに代えて主がダビデにしあわせを報いてくださるという希望ももっていたのです。
荒野の過酷な旅に加え、シムイの呪いの言葉をずっと聞きながらの旅は、いっそうダビデたちを疲れさせました。
15〜19節
一方アブシャロムはアヒトフェルと共にエルサレムに入りました。そこにダビデの友フシャイが「王様ばんざい」と叫びながら迎えたことを一瞬不信に思います。
しかしフシャイの説明を聞いてアブシャロムもアヒトフェルも、それ以上疑念を抱かずすんなりとフシャイを受け入れています。
謀反を起こしたアブシャロムにとって、敵か味方か一番注意を払うはずの時です。
またこれまですばらしい助言をダビデに与えてきた知恵あるアヒトフェルも、人の心をある程度見抜く知恵をもっていたはずです。
この2人が、フシャイを簡単に味方として受け入れたことは、神様の御手が働いたとしかいえません。
神様は必要な時には、厳重な警戒の中でも見過ごすように人の目をくらましたり、知恵ある人の知恵を愚かなものとされるのです。
20〜23節
アヒトフェルはアブシャロムに、ダビデが一番嫌がることをすること、すなわちダビデがエルサレムに残したそばめたちと関係をもつことを提案しました。
それによってアブシャロムに今ついてきた人たちが、この謀反が本気であることをハッキリ認めて勇気を出すだろうと伝えます。
そしてアブシャロムは公然とそのことを実行します。
これはダビデがかつて預言者ナタンから預言されていたことです(12:11〜12)。
こんな助言をするアヒトフェルが、「人が神のことばを伺って得ることばのように」思われていたのです。
ダビデのもとで、アヒトフェルは正にそのような助言をしていたのでしょう。
しかし悪魔に心奪われると、人の知恵はとことんおかしな方向に用いられていきます。
ダビデは全く不当なシムイの呪いの言葉を一身に受けていきました。
またアブシャロムが謀反を起こした時には、あっさりとエルサレムを出て行きます。
それは神が自分の犯した罪ゆえに王権を退けてアブシャロムを立てたのかもしれない、またシムイの呪いの言葉を通して主が自分の罪を痛みへりくだるように仕向けておられるのかもしれないと思えたからでしょう。
不当な呪いを受けてくださった方としては、誰よりもイエス様がそうでした。
ダビデの場合は罪人でしたが、イエス様は全く罪のない神の子です。
その方が人々から嘲られ、強盗たちと同じ十字架の刑まで受けられたのです。
罪のない方が、罪人の代表として十字架で死なれました。
この方を信じるなら、罪の呪いは一切取り除かれるのです。
イエス様が最後までとことん不当な中傷と呪いを受けきってくださったからこそ、どんなに神の基準からはずれた者であっても、信じるだけで罪の赦しと永遠のいのちを受けることができるのです。
本来罪のために神の御怒りを受けるべきだった私たちが、ただキリストのあわれみで赦されたのです。
少々不当な扱いを受けても、中傷されても、本来は「それくらい当然です」と受け取るべきところでしょう。
不当なシムイの呪いの言葉を、そのまま一身に受け取るダビデの姿に、罪を認めきっていく者の心低い姿を学ばされます。