サムエル記U 19章

「愛と情の違い」    Uサムエル19:1〜23

1〜7節

息子アブシャロムの死を悲しみ、ダビデ王はひたすら泣いていました。
本来なら戦いで勝利して喜びの帰還であるはずなのに、王の嘆きのために、民たちも戦場から負けて逃げてきたかのようにこっそりと帰ってきました。
自分の悲しみに浸るあまり、王として命をかけて戦ってくれた兵士たちへのねぎらいの言葉もないダビデ王に、ヨアブは「民たちに恥をかかせている」と指摘します。
ダビデの息子への情で、他のことが見えなくなってしまう姿が浮き彫りになっています。
人間の情は、大切な真理を見失わせる力があります。聖書では、「愛」は「追い求めなさい」と言われています(Tコリント14:1)。
しかし「情」は「十字架でたえず処分されていくもの」とされています(ガラテヤ5:24)。
愛を追い求めていくなら、そこに愛と御霊の実を成らせてくださいます。しかし情を求めていくときには、肉の延長と混乱が起きてきます。
見るべきものが情によって見えなくなるからです。
ダビデも今、アブシャロムへの情によって、彼のために戦ってくれた民たちのことが見えなくなっています。


8節

しかしヨアブの忠告を受けて、ダビデは、門のところに出てきて民たちにねぎらいの言葉をかけました。
ダビデはすぐに情によっておかしくなりますが、助言されて自分の姿に気づくと、またスッキリと立ち上がっていきました。


9〜10節

アブシャロムに加勢していた民たちも、アブシャロムがいなくなると、ダビデの功績を思い起こしてダビデを再び王にすべきだと叫びます。
このように群衆はいつも不安定です。
その時に自分たちに有利な方になびいていきます。
神につながらず、人につながっている人は、いつもこのような不安定さがあるのです。


11〜15節

ユダの長老たちは、ダビデを裏切ってアブシャロムについたことで、自分たちへの報復があるのではないかと恐れていました。
しかしダビデには、彼らへの恨みはありませんでした。
そのことを示すためにアブシャロムの軍団長をしていたアマサをヨアブの代わりに軍団長とするとまで言っています。
そこには、アブシャロムについていた人たちを安心させる目的と同時に、アブシャロムに直接手をくだしたヨアブへの憎しみもあったのかもしれません。


16〜23節

ダビデがアブシャロムの謀反でエルサレムを出て荒野をさ迷っている時に、ダビデを呪いながらついてきたシムイ(16:5〜14)がダビデに謝罪しにやってきます。彼もダビデが再び王になると聞いて、復讐を恐れたのでしょう。
アビシャイは、「主に油注がれた方を呪ったので死に価する」と言いましたが、ダビデは「あれは私のことで」と、どこまでも自分の問題としています。
16章でも同じ事を言っていますが、アブシャロムの謀反は、ダビデ自身のこれまでの罪の結果として受け取っています。
主がシムイを通して自分を呪わせておられると、主からの自分へのメッセージとして受け取っています。
ですから決してシムイに復讐したりはしませんでした。

人間の情は、麗しいものとして思われがちですが、情の深さがかえって裏目に出てしまうことがしばしばあります。
長年お世話になったり、情が高じてハッキリ言うべきことが言えなくなったり、悪い部分まで良く見えてしまったり、情によって見えなくなるものがあります。
逆に情の裏返しで、今まで全て良く見えていたのが、存在そのものまで否定するほどに憎しみに変わることもあります。
情は一見よいものに見えますが、生まれつきの肉に属するものですから、決して情によって良い実を結んではいかないのです。
たえず情は事を曖昧にしていきます。
主は「しかりはしかり、否は否といいなさい」(マタイ5:37)と仰いました。
情で主が言われていることを曖昧にしてはいけないのです。
むしろ私たちは「愛を追い求める」のです。
神様が私たちを愛してくださったのも、決して罪をいい加減にはされませんでした。
ひとり子を犠牲にしてまで、私たちの罪の姿を明らかにしておられます。
私たちが罪ある存在であることと、悔い改めることを求めておられます。
キリストの十字架を通して、罪を曖昧にされたのではなく、むしろ罪を明らかにされたのです。
でも罪を認めて悔い改めるものを、限りなく赦す力が十字架にはあるのです。
愛はどこまでも真理を土台としています。
情は真理を曇らせ曖昧にしていきます。
私たちが今、愛を追い求めているのか、情を追い求めているのか、主は問いかけておられます。



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