サムエル記U 21章

「ダビデの勇者たち」    Uサムエル21:15〜22


15〜16節

ダビデの晩年の出来事が記されています。
ダビデの時代には、たえず外敵ペリシテ人との戦いがありました。
ダビデがいつものように自分の家来たちを連れてペリシテ人と戦いに出た時のことです。
この時のダビデは「疲れて」いました。その疲れは、敵のイシュビ・ベノブにも分かるほどでした。
疲れているということは決して良いことではありません。
特に疲れたままで戦うなら、とんでもない失敗をしたり敵にやられそうにもなります。
イスラエルの敵はペリシテ人ラファの子たちでしたが、神の子たちの敵は悪魔です。
ラファは「巨人」という意味がありますが、悪魔もある意味で巨人のように大きく手強い存在です。
疲れているところを狙って私たちの弱いところを攻撃してきます。
ですから神様は、ご自身の民が疲れたままでいることを望んではおられません。
疲れたら休んだりして力を回復することが必要です。戦ってばかりいたらいつか倒れます。たえずエネルギーの補給が必要です。
身体や心を休めるための工夫も必要ですし、霊的エネルギーをいただくためには礼拝・日々のディボーション・兄弟姉妹との交わりなどを通して、御霊の油を注いでいただく必要が常にあるのです。
特にダビデはこの時だいぶ高齢になり体力も以前よりは落ちていたでしょう。
若い頃と同じつもりでいつものように自ら率先して戦いに出てはいったものの、以前と同じようには戦うことができなかったのかもしれません。
また王としての責任も年を経るごとに重くなり、精神的重圧も疲労に拍車をかけていたかもしれません。
確かに若い頃は、戦いの最前線にいて勝利してきたダビデです(Tサムエル記17:1〜18:14)。
でも年を重ねた今、若い頃と同じ戦い方をしていてはやはり疲れますし、同じような結果をだすことは難しかったでしょう。
疲れていたダビデは、ラファの子イシュビ・ベノブに危うく殺されそうになります。


17節

しかし危機一髪のところを、甥のアビシャイに助けられます。アビシャイが敵を打ち殺し、ダビデの命は守られました。
ダビデの部下たちは、「あなたはもうこれからわれわれといっしょに戦いに出ないでください」と嘆願します。
ダビデは、神の命により預言者サムエルから(まだサウルが王である時に)王として油注がれました。
人間的弱さもたくさんもちながらも、神はダビデを通してイスラエルに「ともしび」を灯し希望を与えきました。
確かにダビデもいずれは死にますが、このようなペリシテとの戦いに出てダビデが殺されることは家来たちにとっても不本意だったのでしょう。
また家来たちもダビデのもとで実力をつけ、直接ダビデの力を借りなくても力をあわせて戦っていけるようになっていました。
ダビデも、まだ今までのように戦えると思っていたけど、このことを通してこれまでとは違う王としての役割に移行することを受け取ることになります。
年に応じて、役割や働きの内容は変わってきます。
ダビデもこの戦いで殺されそうになる経験をして、「まだ自分は大丈夫」という驕りを砕かれ、今主から与えられている使命を新しく受け取りなおすことになります。


18〜22節

17節のアビシャイと併せて、シベカイ、エルハナン、ヨナタン(シムアの子)、の4人がダビデの勇士として挙げられています。
彼らがダビデに代わって、ペリシテの強豪を倒していきました。
これまでダビデについていき、荒野や放浪をも共にしながら、勇敢な家来たちがしっかり育っていきました。
彼らはダビデの弱さや失敗も目の当たりにしながら、それでもダビデと共にいて働かれる神の力、神の守りを体験してきたことでしょう。
彼らも神の力に頼りながら、立ちはだかる強敵にも向かっていく勇気や知恵を与えられていきました。
ダビデ一人が突出していた時代よりも、このように複数の勇士たちが力を合わせて戦ったこの時代のイスラエルは、さらにペリシテにとっても脅威となったことでしょう。

イエス様もご自身ではガリラヤという限られた地域だけで宣教されましたが、その弟子たちが、復活の主に出会い聖霊注がれて、一人一人地の果てまでキリストの証人として遣わされて世界中に福音が広がりました。
イエス様を信じる者は「さらに大きなわざを行います」(ヨハネ14:12)と言われた通りです。
そして神の栄光のために、イエス様の名によって大胆に求めていった時に、主はその通りのことをしてくださったのです(ヨハネ14:14)。
キリストの御名に頼る一人一人が「ただ神の栄光のために」という志をもって結集していく時に、力強いキリストのわざが現れていくのです。
私たち一人一人はどんなに小さくあっても、復活のキリストの証人です。
そしてその福音の力を妨害する唯一の敵悪魔と闘うには、神の武具が必要です(エペソ6:10〜18)。
しっかりと神の武具を身にまとい、キリストの勇士として、また世における「ともしび」として、神の栄光のために用いていただきましょう。



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