サムエル記U 22章
「主が私を喜びとされた」 Uサムエル22:1〜25
1〜4節
この歌は、ダビデがサウルの手から救い出されたときの歌ですので、ダビデ王初期のもののようです。
もともとダビデは、サウル王から非常に愛され、王の側で竪琴をひいてサウルの心を慰めていました(Tサムエル16:17〜23)。
しかしダビデがペリシテ人の大男ゴリヤテを負かし、次々に勝利を収め、人々がダビデの力をたたえるようになると、サウル王はダビデに猜疑心を抱くようになります。
そしてダビデへの妬みから、命をも狙うようになりました。
ダビデは、サウル王がどんなに追いかけてきても、神が油注がれた方だからという理由で、決してはむかうことなく王から逃げていきました。
ある時は洞窟に、ある時は敵国ペリシテの地にまで逃げていきます。
しかし改めて神の御前に静まり思い巡らす時に、自分にとって確実な逃れの場は神ご自身であったとここで歌っています。
「次にどこに逃れようか」と、いつも考えていたけど、どこに逃れても本当に安全な場はありませんでした。
逆にどこに逃れても、神ご自身が共にいてくださるから安心でもあったのです。
「私の究極の逃れ場、避け所は神の元である」というのが、ダビデの心からの告白でした。
5〜7節
何度も「もうダメだ!」と絶望しかけたし、「今度こそ殺されるかもしれない」という死の恐怖が目前にありました。
でもその苦しみの中で、ダビデは主を呼び求め、主に叫んだのです。
すると確かに神は、ダビデの祈りを聞いてくださいました。
具体的な神の助けをやがて見た時に、「私の叫びは、御耳に届いた」ということがはっきり分かったのです。
8〜16節
ダビデは、自然現象の威力を見ながら、そこに神の圧倒的な力を感じています。
地震や台風などの自然の脅威に対して、人は無力です。
自然災害がもたらす損失に対して、人はその酷さを感じ、神を呪う人もいます。
しかし今ダビデは、自然の威力の前に何もできない人間の小ささと同時に、天地を揺り動かす力のある神の偉大さに目を向けています。
そしてその力によって、弱く小さな者をも守っていてくださるという驚きを感じているのです。
17〜25節
ダビデは、敵が自分よりも強いことを認めています。
この当時たえずイスラエルに侵攻してきたペリシテ人も強かったし、またダビデの命を追い続けたサウルはイスラエルの王で、ダビデは弱い立場にありました。自分よりはるかに強い敵に囲まれても、その敵よりも強い神がダビデと共におられたのです。
「だが主は私のささえだった」(19節)のです。
そして主がダビデを、自由と解放を享受できる場所へと連れ出してくださったのです。
その理由は、「主が私を喜びとされたから」(20節)です。
天地を揺り動かす爆発的なエネルギーをもった神が、私を喜び守ってくださるから安心なのです。
ダビデはここで、「私の義」(21,25節)、「私は主の道を守り」「悪を行わなかった」(22節)、「私は主の前に全く私の罪から身を守る」(24節)、「私のきよさ」(25節)と、いかにも正しくきよい生き方をしているかのように歌っています。
確かにダビデは、神に喜ばれるきよい生き方をしたいと願っていたことでしょう。
しかしダビデの人生全体を見るなら、およそ「きよい」「悪を行わなかった」と言えるものではなかったでしょう。
この歌を歌った頃は、まだバテシェバ事件も、子供たち同士の確執もなかったからこのようなことが言えたのでしょうか?恐らくダビデが晩年になっても、この歌を心から歌えたことと思います。
不完全な者、主の前に罪だらけの者をもあわれんで苦しみから救い出してくださる神の愛と力を経験した時に、「こんな自分をも神は喜びとしてくださっている」と、自分の行いや生き方を越えて、存在を喜んでくださる神を知ったのでしょう。
その神のあわれみを知ったダビデだからこそ、その後大きな罪を犯した時も、必ず神のあわれみがあることを信じて悔い改めて立ち返ることができたのでしょう。
どんなに滅茶苦茶な存在も、神を信じる者を神はとことん見捨てず愛してくださるのです。
神は、私がどのようなものであるか、何を行った行わなかったにかかわらず、不完全で罪の弱さをもっていても、神を信じる者を義としてくださるのです(ローマ4:3〜8)。
神はそのことを更にリアルに私たちに知らせるために、御子キリストを遣わしてくださいました。
私たちがまだ罪の中にある時に、キリストは私たちに代わって十字架で死なれました(ローマ5:8)。
「主が私を喜びとされる」のも、私が立派になってからではありません。
愚かでどうしようもない生き方を何度も選択してしまい、迷いだしてしまう者をも、羊飼いのように命がけで捜してくださり、肩に担いでいるべきところに連れ戻してくださる方です。
キリストの十字架は、何度でも罪をきよめて神に立ち返らせる効力があるのです。
十字架を見上げる時に、どんなに自分の汚い姿を見ても、「主が私を喜びとしてくださっている」から、私たちのうちにも喜びが沸きあがってくるのです。
ハレルヤ!