サムエル記U 22章
「「主は生きておられる」 Uサムエル22:26〜51
26〜28節
「恵み深い者」「全き者」「きよい者」「悩む民」が同じような意味で使われ、反対に「曲がった者」「高ぶる者」も同じような意味で使われています。
神は高ぶる者を低くされる方です。
必ずその高ぶりから神が引きづり降ろされます。
でも、悩む民(悩みによって心低くされる民)、人にも恵み深い者(悩みによって神の恵みを体験し、人にも恵みをもたらす存在とされた者)には、とことん恵み深く扱ってくださる神です。
29〜30節
主がともしびであり、闇を照らしてくださいます。
息子アブシャロムの謀反で、荒野での逃亡生活を余儀なくされたダビデでしたが、あてもなくさ迷う中でも主がダビデのともしびだったので、道に迷って完全に絶望することはありませんでした。
31〜35節
主のみことばは、人の助言や慰めよりも、確かで力があります。
主に身を避けるときに、主は徹底的にその人の盾となって守ってくださいます。
たとえ道に迷うことがあっても、途方に暮れることがあっても、神が私の道を探り出してくださいます。
普通の人には難しい青銅の弓をひく力も、いざとなれば主は与えてくださるのです。
36〜46節
ダビデは、外国人とも戦うことが多くありました(特にペリシテ人)。
その戦いのためにも力を帯びさせて勝利を与えてくださったのは、神様です。
低い心は、勝利や良いことを自分の誉れとはしません。
すべて神の手によること、また主が備えてくださった人や出来事によることを認めて、「主よあなたです!」と、神に感謝と栄光をささげていきます。
高ぶる者は、どこまでもすべて自分の手柄にし、人に自分のしたことを宣伝していきます(マタイ6:1〜4)。
47〜51節
サウルに命を狙われた時には、ダビデはとことん退いて神に委ねていきました。
その結果、ダビデは自ら手をくださすことなく、神が勝利をもたらしてくださいました。
主は生きておられ、ダビデの救いの岩となってくださったのです。
ダビデに敵対してきたり、悪意をもって中傷する者たちに、ダビデは仕返しをしませんでした。
主に祈りながら、主のみ手に委ねていきました。
その結果、主が敵対する者に復讐をしてくださったのです(ローマ12:18〜21)。
主のみ手に落ちることほど恐ろしいことはありません。
生きておられる主は、キリストを信じて義とされた者たちの祈りを聞いてくださいます(ヤコブ5:16)。
主に願っていくなら、主自らが戦ってくださり、勝利を与えてくださいます。
またキリストに義とされた者たちが、2人3人でも心合わせて祈る祈りには大きな力があります(マタイ18:19〜20)。
主は今も生きておられます。
この方にもっと大胆に祈り、また祈ったことはお任せしていきましょう。
主に身を避ける者の盾となって、神は守ってくださいます。