サムエル記U 23章

「いのちをかけて運ばれた水」    Uサムエル23:1〜39


1節

この詩は、ダビデの遺言のような内容です。
ダビデは、神に油注がれてイスラエルの王となりました。
サウルがまだ王であった時に、神はすでに預言者サムエルをベツレヘムに遣わし、羊飼いをしていたダビデに油注がれました。
王としての知識も経験もないダビデに、神は油注がれました。
実際にイスラエルの王として立つのは、それからずっと後のことです。
ダビデの生涯を通して、たとえどんなに敵や障害に囲まれていたとしても、神は油注がれた者を立たせてくださることを示してくださっています。


2〜5節

ここでダビデは、主の霊に満たされて語らされています。
人々を統治する王とは、「義をもって人を治める人」「神を恐れて治める者」であるべきなのです。
そしてこのことはやがて来られるメシヤ、キリストを預言していることばでもあります(イザヤ61:1〜2)。
義をもって治め、神を恐れて治める人は、明け方に暗闇を追い払う朝日のように人々の心を明るくし、暑さによってしおれた草が雨水によって活気を与えるようだと表現しています。
それはまさにキリストが私たちにしてくださることです。
人間の王やリーダーは、どこまでも不完全ですが、やがてこの資質を完全にもたれる王の王キリストが来られることを、ダビデは聖霊に満たされて預言しているのです。
またダビデは5節で、預言者ナタンを通して、神がダビデとその子孫を祝福すると伝えた神の約束(Uサムエル7:11〜16)を思い出し、そのことを確信しています。


6〜7節

義を愛し、神を恐れることをしないよこしまな王の結末をも予告しています。


8〜39節

ダビデの勇士たちのことが記されています。
神の契約によって守られたダビデ王権が、同時に勇士たちによって支えられたことを王国の歴史に記す必要がありました(T歴代誌11:10)。
第1の3勇士、ヤショブアム、エルアザル、シャマのことと、第2の3勇士のこと、そして他の30人以上の勇士たちの名が挙げられています。
ダビデには、これだけ多くの協力者がいました。
ダビデの王としての働きを支え、またイスラエル国を守るために、彼らは一丸となっていきました。
教会も、そこに集う一人一人が自分の役割を神様から受け取って実行していく時に、神の御手によって強くされていきます。
ここで、たくさんの勇士の名が挙げられているにもかかわらず、最初の3勇士のことが強調されています(19、23節)。
その理由のヒントになることが、13〜17節に記されています。
ペリシテの戦いで要害にいたダビデが、ペリシテの先陣がいるベツレヘムの水を飲みたいと切望していました。
ダビデにとっては、ベツレヘムは生まれ故郷であり、またそこの水は特別なものだったのでしょう。
それを知った最初の3勇士(ヤショブアム、エルアザル、シャマ)は、自分たちのいのちも顧みず、敵陣を突き抜けてベツレヘムの門にある井戸の水を汲み、ダビデのところに持って来ました。
ダビデは、彼らの勇気ある行動と、自分のためにそこまでしてくれた3人に感動し、また恐縮し、もったいなくてその水を飲むことができませんでした。
常に敵に囲まれ、この時もまだサウルにいのちを狙われ追われていたダビデにとって、彼らは本当に力強くありがたい存在だったことでしょう。
彼らの励ましにより、ダビデはまた力を受けて戦いを続けることができました。
イエス様も、キリストの弟子に水一杯を飲ませてくれる人は、報いからもれることはないとおっしゃっています(マルコ9:40〜41)。
ちょっとした配慮や、笑顔、優しいことばが、弱っている人に力を与えていくことがあります。
そして私たちにも、いのちをかけてくださったイエス様がいます。
私たちを罪から救うために、神の子キリストが十字架でいのちを捨ててくださいました。
そのことを思うと、何てもったいない、ありがたいことかと、私たちも励ましを受けるのです。
この私のためにいのちをかけてくださったイエス様のことを思うと、元気になり、勇気が湧いてきます
(ヘブル12:2〜3)。
罪人たちの反抗を忍び、十字架で死なれたイエス様から目を離すと、私たちは元気を失い、疲れ果ててしまうのです。
私たちが、人生の様々な戦いやストレス社会にあっても、大きな力を得る秘訣がここにあります。
元気の源となってくださった、信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さないようにしましょう。



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