サムエル記U 24章
「人数や力によらず」 Uサムエル24:1〜10
1節
旧約聖書では、主が怒る場面が何度か出てきますので、「旧約の神は怖い」というイメージをもたれることがあります。
しかし全体を読むと、神の怒りに優って、神の深い憐みが示されています。
主の怒りが、まるで後に示されるご愛の大きさを示すためのものであるかのようです。
主がどのようなことを怒り悲しまれるかを知ることで、自分のはずれた状態を知り、悔い改めて神に立ち返っていく時に、神の赦しの大きさを知るのです。
ここで主がダビデに人口調査をさせたように書かれていますが、第1歴代誌21:1では「サタンがダビデを誘い込んで」させたと書かれています。
神が人を罪に誘うことはありません。
ここはサタンがダビデの心に悪い心を起こさせ、あえてそのサタンの介入を神が許されたということです。
ヨブ記にも似たような記述があります(ヨブ1:12)。
人口調査自体が悪いことではありません。
ただその動機に問題がありました。
今このときに人口調査をしようとしたダビデの心を神はご覧になり、またそれは周囲の人たちにも問題を感じさせるものでした。
2〜9節
ダビデの側近ヨアブも、ダビデの命令に疑問を抱きました。
「ヨアブと将校たちを説き伏せた」(4節)とありますから、周囲の者たちも反対だったのでしょう。
ヨアブたちは、年老いてダビデが権勢欲にとりつかれている様を感じたのでしょう。
ヨアブなりに、これまでダビデと国のために戦ってきた過程で、ダビデが主に頼る姿を見てきましたし、神が助けてくださることを感じてきました。
どんなに不利な情勢でも、ダビデの神は助けてくださると思うようになっていたことでしょう。
明らかに自分たちより強そうな敵にも勝利を収めてきました(Tサムエル14:6)。
必要があればダビデの信じる神が兵士を100倍にも増してくださるとヨアブも信じていました(3節)。
しかしダビデも晩年になって、どこかで「自分が勝利を収めてきた」という高ぶりが出てきたのかもしれません。
またサタンがそこにつけ込んで来たのでしょう。
純粋に王としての責務を全うすることより、国をもっと強大にし、王としての力を近隣諸国にも見せつけたいという思いに捕われたのかもしれません。
周囲の反対を押し切って、人口調査、特に剣を使う兵士の数など(9節)を調査しました。
ダビデ自身、兵士や武器の多さが勝利をもたらすのではなく、主ご自身の力と守りが救いであることをかつて歌っていました(詩篇20:6〜9、33:16〜17)が、欲につかれてそのことすらも思い起こせなくなっています。
主がおられるなら、兵士の数が少なくても主が守ってくださるのです。
10節
ダビデは権勢欲にとりつかれ、周囲の意見も耳に入らないほどになっていました。
欲に支配されると、人はおかしくなります。
あとになって冷静になれば、「何とおかしなことをしてしまったのだろう」と思えることでも、その時は欲のままに突き進んでしまうのです。
ダビデも、ヨアブから人口調査の結果、兵士の数などを報告された時に初めて「良心のとがめ」を感じました。
恐らく具体的な数を聞いた時に、ダビデの心をくすぐるものがあったのでしょう。
それにより、自分の心の高さや欲に気づいたのかもしれません。
神様は人にやるだけやらせて、罪の結果がどのようなものであるかを教えられることがあります。
以前は預言者に指摘されるまで自分の罪に気づきませんでしたが(Uサムエル12:13)、今回は指摘される前に自分で気づいています。
神様は私たちの表面的な働きや行動だけでなく、その心(動機)をご覧になる方です。
どんなに良いことをしているつもりでも、名誉心や人との競争心が動機となっているなら、決して喜ばれません(ルカ18:9〜14)。
自分の国の強大さを誇るダビデより、その醜い自分の姿に気づいて「神様、私は大きな罪を犯しました」(10節)と胸うちたたいているダビデを主は喜んでくださいます。
神様が働かれる時には、人数も武器の多さも関係ありません。
少年ダビデも、石ころだけで巨人ゴリアテを倒しました(Tサムエル17:49)。
私たちは何かをもっていることで自分を誇ろうとしたり、誰かがいてくれることで安心しようとしてしまいがちです。
でも何が足りなくても主が共にいてくだされば大丈夫だという信仰に立たせていただきましょう。
勝利と救いは、兵士や武器の多さによらず、主にあることを感謝していきましょう。
そして自分の心の中に悪い動機があることに気づいた時には、ダビデのように速やかに主に悔い改めて向きを変えていきましょう。