サムエル記U 24章
「罪の現場で築き直す祭壇」 Uサムエル24:11〜25
ダビデは、晩年になって自分の勢力を誇ろうとし、権勢欲にとりつかれて人口調査をしました。
ダビデが常軌を逸していることを側近の者たちも感じて反対しましたが、ダビデは周囲の意見も聞かず、強引に人口調査を実施します。
しかしいざ人口調査の結果を聞いた時にダビデは、動機が不純であったことを知り罪悪感を抱き、主の前に悔い改めています。
11〜14節
神様は預言者ガドをダビデのもとに遣わされ、この出来事を神が重く受け留めておられること、そして神の刑罰を選択するようにと迫られます。
客観的には、王として人口調査をすること自体悪いことではないのだから、大したことではないと思われるかもしれません。
しかしダビデ自身は神の刑罰を当然の事と受け取っています。
罪は犯すけど、一旦罪を認めると潔くその結果をも受け取るところがダビデにはありました。
罪を心から認めるときには、刑罰さえもあわれみに思えてきます。
小さなことさえ、「こんな罪人にはもったいない」と感謝して受けとる心が芽生えてくるのです。
自分を義としているときには、ちょっとしたことにも「神様はなぜこんなひどいことをするんだ」と怒り、小さな恵みにも「それくらいはされて当然だ」と言って高ぶるのです。
しかし神様の前に罪を認めるとは、滅びがふさわしい者であることを認めることです。
ですから、黄泉の底まで滅ぼされつくされなかったことは主の恵み、神のあわれみと思えるので(哀歌3:22)、どんな刑罰を受けようと、永遠のいのちを剥奪されないだけでもあわれみと思えるのです。
ダビデは、神から差し出された3つのうち、最後の「三日間、国に疫病がある」ことを選択しました。
敵の手に陥るよりは、まだ神ご自身のあわれみの中にいる痛みの方がよいと思ってのことでした。
どれを選択しても、イスラエルの王であるダビデ自身は痛みを負うことになりますし、イスラエルも痛みを負うことになります。
ダビデの罪の結果であるのに、なぜイスラエルの人たちまでこの痛みを負わなければならないのでしょうか?それは
「主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった」(1節)ことにあったのでしょう。
すでにイスラエル中に蔓延していた不信仰、偶像崇拝、高ぶりに対して神は怒っておられたのです。
ですから、ダビデだけではなく、イスラエル全体が悔い改めることを神は求めておられたのかもしれません。
15節
欲を出して、強引に人口調査を行ったことで、かえって7万人を失うことになりました。
今ある状態を感謝して受け取ればよいところを、欲を出してかえって失うことがあります。
本来なら7万人の人口を保てたのに、権勢欲を生かしたために、かえって失ってしまうことになったのです。
神を侮るとは、これほどに痛みと損失が伴うことなのです。
16〜17節
しかしこのような厳しい出来事の中にも、神はあわれみを示してくださいました
国民のいのちが次々に失われていくことにダビデは耐えられず、ひたすらとりなし祈りました。
そこで神は「わざわいを下すことを思い直し」てくださったのです。
神様は何でも決めたことを機械的に行われる方ではありません。
人格をもっておられ、あわれみによって思い直すこともなさる方なのです。
ですから、私たちはあきらめないで神に祈り続けることができます。
「あなたのみこころは3日間ですが、主よあわれんでもうこの災いを止めてください」と、「みこころさえも変えてください!」と大胆な祈りをすることもできます(主を畏れ敬いつつ)。
神様は実際3日間このわざわいをくだすことはされませんでした。
「神が計画を変更するのはおかしい」と思われるかもしれませんが、それは人間の知恵の限界なのでしょう。
その変更さえも神のご計画に入っていたのか、人の浅知恵では測り知れない深遠なご計画の中でみこころを実現される神です。
18〜24節
神は預言者ガドを通して、アラウナの打ち場に祭壇を築くように命令します。
そこは御使いがわざわいの手を下すことを神に止められた場所でした(16節)。
この一連の痛みの結果は、主への祭壇が崩れていたことにありました。
主への礼拝生活がしっかりしていれば、人口調査のことも、まず神にみこころかどうかを尋ねたことでしょう。
主の御声も聞かず、周囲の意見も聞かず、自分の思いだけで突っ走ってしまった結果をダビデは刈り取ることになったのです。
神は私たちの罪の痛みの場所で、もう1度神への祭壇を築き直し、信仰を1からやり直すように求められます。
何度でも、初心に戻って祭壇を築き直していくのです。
アラウナは、ダビデ王が彼の打ち場(脱穀した麦を風でもみがらから吹き分けるためのもの)で主への祭壇を築こうとしていることを聞いて、そのために必要な道具と全焼のいけにえのための牛をダビデにささげることを申し出ます。
しかしダビデは、「費用もかけずに主に全焼のいけにえをささげたくはありません」(24節)と言って、その申し出を断り、銀50シェケルで買い取りました。
主を礼拝するためのささげものは、痛みをもってささげるものです。
ただでもらったものや、余り物をささげても意味がありません。
礼拝献金も、ささげることに痛みを感じながら、自分自身を主のものとしてささげていくのです。
このアラウナの打ち場は、やがて聖別されソロモンの時代に神殿を建設する場所となっていきます(U歴代誌3:1)。
25節
ダビデが神への祭壇を築き直し、ささげものをもって自分自身を神にささげたことで、神罰は終わりました。
またダビデだけではなく、疫病を通してイスラエルの国中の人々が神に悔い改めたのでしょう、神は3日間わざわいをくだすことはされませんでした。
国をあげての祈りに主は心動かされたのです。
ダビデは、自分の罪を認め、悔い改めてささげものをもって主への祭壇を築き直しました。
形だけになっていた礼拝が、真の礼拝として回復されたのです。
神は今も私たちに形だけではなく私自身を生きた供え物としてささげる霊的な礼拝を求めておられます(ローマ12:1)。
様々な痛みを通して、私たちは自分の罪を知らされます。
欲による暴走を主は止めてくださるのです。
そこでもう1度悔いくずおれて神を礼拝することを求めておられます。
今私たちは、キリストを通して神を礼拝することができます。
全焼のいけにえとして、私たちの罪のいけにえとして、キリストが十字架上でほふられてくださいました。
このキリストを信じて神を礼拝する者には、神罰は決して及ばないのです。
生まれながら神の怒りを受けるべきだった者が、キリストの恵みによって救われたのです(エペソ2:3〜8)。
キリストを信じる者は、神罰が及ばないばかりか、神の子どもという特権と永遠のいのちを受ける恵みに与っているのです。
しかし今も神の怒りを身に背負いながら重たい人生を歩み続けている人たちがたくさんいるのです。
その方々のために、ダビデがとりなしたように私たちも万人祭司としてとりなし祈る役割を主から託されています。
罪の痛みを経験した現場で、祭壇を築き直していくなら、主は驚くべき恵みにすべてを変えてくださいます。
このアラウナの打ち場は、やがて神の神殿を建設する恵みの場所として用いられていくことになるのです。