サムエル記U 3章
「主に任せよ」
1〜5節
ダビデの家族構成が最初に紹介されています。ダビデが重婚をしたことは、決して神の喜ばれることではありませんでした(申命記17:17)。このことでダビデの家庭に様々な痛みがこの後襲ってきます。
6〜11節
サウル家の将軍アブネルがサウル王のそばめと深い関係になっているという噂をイシュ・ボシェテが聞いて、アブネルを問い詰めます。アブネルはそれに対して否定しませんでした。しかし非を認めて謝ることもなく、逆に怒って王位をダビデに移すと言い出します。アブネルも、神がダビデをイスラエルの王として選ばれていることをはっきり認めていたのです。そうでありながら、これまでダビデが王位につくことを妨げていました。でもイシュ・ボシェテから責められたことを機に、神がダビデに言われた通りのことを自分も協力して果たすというのです。傍から見れば少し滑稽な会話ですが、このような人間の愚かささえも用いて、神様はご自身のみ心を実現されます。
12〜16節
アブネルは早速ダビデのもとに行き、全イスラエルをダビデの統治下に置く協力をする申し出をします。ダビデはこの契約を結ぶに当たり、かつてサウル王が連れ帰ってしまい別の男と結婚させたダビデの妻ミカルを返すことを条件にします。ミカルは、泣きながら後を追ってきた夫のパルティエルから引き離され、再びダビデの元に戻ることになります。このことは、決して神様の祝福の出来事とはなりませんでした(6:20〜23)。
17〜20節
ここでもアブネルは、主がダビデをイスラエルの王としておられることを認めています。そしてイスラエルの長老や、すでにダビデを王として油注いだベニヤミン人たちにもダビデが全イスラエルの王となることを伝えにいきます。
21〜27節
ヨアブは、自分の兄弟アサエルをアブネルに殺されたとして、アブネルのことを憎んでいました(実際にはアブネルはアサエルを殺すつもりはなかった)。しかもダビデとアブネルが契約を結んだと聞き、ヨアブはアブネルを殺します。
28〜37節
ダビデとしてはアブネルと契約を結んだばかりで、アブネルを殺すことは不本意でした。でも周囲からはダビデがアブネル殺害を指示したと疑われ兼ねない状況でもありました。少しやりすぎと思えるほどに、ダビデはアブネルの死を悼みます。でもそのことで民たちは決してアブネル殺害がダビデの本意ではなかったと確信し、満足します。
38〜39節
偉大な将軍アブネルがヨアブの手によって倒れました。ダビデとしては王としてヨアブを罰するべき立場にありましたが、まだ王になったばかりでそのような権威はありませんでした。「主が悪を行う者には、その悪にしたがって報いてくださる」と信じて、ヨアブの裁きもダビデは神に任せます。そしてソロモンの時代に、ヨアブは打たれるのです(T列王2:28〜34)。
まとめ
ダビデにとって、アブネルの存在はもともと脅威だったでしょう。ダビデを王として認めず、同じイスラエルにイシュ・ボシェテを王としてたて、サウル家の実質的権威を握っていたからです。しかしダビデは、サウル王に対してもそうしたように、アブネルに対しても自ら剣を向けることはしませんでした。だからといって、神様はダビデに油を注がれたことをいつまでも曖昧にはされませんでした。ダビデが全く知らないところで、アブネルとイシュ・ボシェテのトラブルを用いてみ心を実現されました(1節を見るとそこまでにはとても時間がかかったことが分かります)。また王となったからといって、いきなり王としての権威をかざしてヨアブを罰することもしませんでした。今の自分にはまだそのような権威はないとして、ヨアブへの処罰も神のみ手に任せています。
自分にとって厄介な人、気に入らない人に対して、何か操作したりおとしめようとする心が働く時があります。しかしそれを実行することはかえって事を複雑にし、また神様の働きを妨げていきます。「誰に対してでも悪に悪を用いない」「全ての人と平和を保つ」ことが主のみ心です(ローマ12:17〜21)。悪に対しては神が裁かれるから、私たちは裁かなくて良いのです。人を罠にはめたり悪い噂を流したりせず、正しく裁かれる神を信じて任せていけば良いのです。神様を信じるとは、具体的にみことばを信じて歩むことです。私がすべきではないこと、またできないことは、主がしてくださると信じて任せていくことが最終的に勝利につながっていくのです。