サムエル記U 5章
「主を先立てる戦い」
1〜5節
サウル王の死後、イスラエルの王としてイシュ・ボシェテが王となり、ユダ民族は祭司サムエルからすでに王として油注がれていたダビデを王とし、しばらく2人の王がイスラエルを治めるという混乱期が続きました。しかしイシュ・ボシェテが死ぬと、これまで彼を王として従いダビデに敵対していた人たちが、ダビデと契約を結びに来ます。ダビデがヘブロンで王であったのが7年6ヶ月(5節)で、その前は長い間サウルに命を追われていたので、サムエルから油注がれてから、おそらく15年以上経って、ダビデは正式に王になったことになります。その間ダビデは、神の約束を信じて主が為さろうとしていることが実現する時を待ち望んでいたのです。
6〜10節
イスラエルの王として国を治めるために、ダビデは南端ヘブロンからエルサレムに場所を移動します。しかしエルサレムには長い間エブス人が住んでいました。エルサレムは高地にあり、自然に町を敵から防御しやすい環境にありました。そのような環境に守られてこれまでエブス人はエルサレムに留まることができたのですが、それを自分たちに力があったからだと勘違いしています。ダビデは高地にありながら、水の便が良いエルサレムには
良い水路があるはずと思い、水汲みの地下道を見つけます。ヨアブの指揮のもと(T歴代誌11:6)、表からではなくこの地下道を抜けてエルサレムに入り、エルサレムを勝ち取ることができました。これも神様から与えられた知恵でしょう。ただ神がともにおられたダビデだからこそ、神は彼を大いなる者とされたのです。神から外れてペリシテの地に逃げていった時には、ダビデの歩みは悲惨でした。
11〜16節
隣の国ツロの王も、ダビデがイスラエルの王となったことを知って使者を送って
王宮を建ててくれました。神様がそのようなすばらしい協力者も与えてくださったのです。
またエルサレムで生まれたダビデの子たちの名が記されています。当時は複数の妻をもつことが許されていましたが、だからといってそのことが必ずしも祝福の出来事になってはいませんでした。このことが兄弟同士、妻同士の憎しみと争いの種となっていきます。
17〜25節
かつてサウル王に負われてペリシテの地に逃れてきたダビデがイスラエルの王となったと聞いて、ペリシテはイスラエルを攻撃してきます。主とともに歩んでいたダビデは、「ペリシテ人を攻めに上るべきでしょうか」と主に尋ねています。ダビデは、神様に一つ一つ尋ねながら王としての働きにあたりました。神が彼の知恵であり力でした。神は「上れ」と答えられます。そして堤防の水が一気にほとばしり溢れるように、ペリシテは打ち負かされました。しかも自分たちが頼ってきた偶像をも置き去りにして逃げていきます。人の手によって造られた神は、また人の手によって処分されてしまいます。
ところがペリシテは、再びイスラエルを攻撃しに来ます。ダビデは再び主に上っていくべきか尋ねます。今度の主の答えは、「上らずに彼らのうしろにまわっていきなさい」でした。「前回もこれで勝ったから今回も同じように」と前の体験で判断するのでなく、心を空っぽにして主に尋ねています。決して前の勝利によって高ぶることなく、自分の知恵力に過信することなく、神に伺っています。ダビデは、主が彼の先を歩んでくださらなければ決して勝てないことを認めていたからです(24節)。主が命じられたとおりに戦った結果、圧倒的勝利を治めます。
主に一つ一つ伺いながら戦ったこの戦いは、「主がすでに敵陣に先に出ていてくださる戦い」でした。主がペリシテを打つために先に出向いていてくださるから、安心してうしろから攻めることができたのです。主が先に出ていてくださる戦いは安心です。主が先に出ていてくださるから、不安と恐怖の戦いも主に期待して出て行くことができるのです。主に一歩一歩聞きながら、「あなたが先立ってください」と願っていくのです。自分が前に出るとたちまち打たれてしまいます。どんなことも主に聞きながら主を先立てていくなら、「ああまた主が備えて助けてくださった」という事実を体験し続けることができるのです。