サムエル記U 6章


さげすむ者と喜び踊るもの

ダビデはイスラエルで正式に王となったときに、まず神の箱をエルサレムに運び込もうとしました。神の箱は主の臨在の象徴としてイスラエルが大切にしてきたものでしたが、べテ・シュメシュの人たちがこの箱の取り扱いを誤ったため主に打たれ、その後キルヤテ・エアリムのアビナダブの家に長年安置されてきました(Tサムエル6〜7章)。

ダビデはアビナダブの家から新しい車に神の箱を乗せ、牛に車をひかせながら運び込もうとしました(3節)。本来神の箱のような聖なるものは、人が肩に担って運ぶよう決められていました(民数記4:14〜15)。ダビデはペリシテ人(異教徒)のやり方をこの時まねたのかもしれません(Tサムエル6:7)。神の箱を運び込み、ダビデとイスラエルは喜びの絶頂でした。

その時に事件が起きます。牛が神の箱をひっくり返しそうになりウザが箱を抑えようとした時、主の怒りがウザに向かって燃え上がりウザはその場で主に打たれて死にます(6〜7節)。なぜウザはこのように主から打たれたのでしょうか?恐らくアビナダブの子であったウザは、神の箱が長い間アビナダブの家に安置されているうちに、それが聖なるものであり主の臨在を象徴するものであるという意識が薄れていったのでしょう。主の臨在(主がともにおられること)は、本来何を失ってもほしいものです。それさえあれば感謝というほど尊いものです。しかしウザは、そのことに慣れっこになってしまっていたかもしれません。「聖なるものに触れたら死ぬ」(民数記4:15)というみことばも、あまり心に留めていなかったのでしょう。倒れないように押さえたという理由があったにせよ、彼のその意識の薄さにより、簡単に神の箱に触れてしまいました。

ダビデは、この出来事を重く受け留めました。「主の箱を私のところにお迎えすることはできない」と考え、オベデ・エドムの家にそれを回します(9〜10節)。しかし主はオベデ・エドムを祝福されました。3ヶ月主がオベデ・エドムと彼の全家を祝福されるのを見て、ダビデは再び神の箱をエルサレムに運びます。

ダビデにとって、この3ヶ月は深く自分自身を省みる時だったでしょう。神はウザを打たれたけど、ダビデ自身もこの世のやり方を真似て神の箱を新しい車で運んだこと、また神の箱を運ぶことでどこかに自分はサウル王と違って主の臨在を大切にしていることを民に見せつけようとしたところがあったかもしれないこと、ウザが打たれたことでもう1度神の聖さや神に従うことの大切さを悟り、どこまでも神の前にへりくだるべきことなどを思い起こしたことでしょう。

ダビデは再び喜び踊りながら、神の箱を運び込みました。ウザの出来事が起きる前とは比べものにならない喜びだったでしょう。ウザの事件を通して自分の罪を知らされ、へりくだらされたダビデを、主はもう1度祝福してくださったのです。

ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ、もう1度神との関係をはっきりします(17節)。このいけにえをささげることで、自分が主のものであることをはっきりさせたのです。私たちが主にささげもの(献金など)をする時も同じです。ささげることで、自分自身を主にささげ、自分自身が主のものであることをはっきりさせられていくのです。主のものとして聖別されていくのです。

民を祝福して後、家族を祝福するため帰ったダビデに、妻のミカルは嫌味のことばをもって迎えます(20節)。「サウルの娘ミカル」と繰り返されているように、ミカルにはサウル王の娘というプライドがありました。手放しで主を喜び、主の臨在を現す神の箱が戻ってきたことを喜ぶダビデを彼女は理解できませんでした。どこまでもミカルは、ダビデに王としての体面を保つことを求めていきました。ダビデとしては誰よりも一緒に喜んで欲しかった妻のミカルに見下され、心が冷めていきます。王らしくない態度をとったと責めるミカルに対してダビデは、「プライドの高いサウル家よりも、ごろつき同様の身分の低い自分をあえて選んでくださった主の前で私は喜び踊るのだ」(21節)と答えます。またたとえミカルが重んじるような身分の高い人たちから軽蔑されても、自分は卑しい人たちの友でいたいとダビデはミカルに語ります(22節)。誰よりもミカルを愛したダビデでしたが(3:13〜16)、ダビデを見下し、彼の喜びを理解しないこのミカルの態度により、2人の間には深い溝ができていきました(23節)。

主の前に喜ぶダビデをさげすむミカルの態度は、ダビデを主から引き離そうとするものでした。しかしそれに対してダビデははっきりと自分の信仰を表明していきます。彼は「主の前にあるかどうか」を問題にしました。心が主に向かっている時、主を喜んでいる時は、人の評価に引きずられることはありません。ダビデは、あえて自分のような卑しいものを選んでくださった主に感謝せずにはいられませんでした。だから自分は卑しい者の友でいたいと心から思えたのです。とるに足りない者に目を留めてくださる主の恵みを知ったなら、主を喜び主を誇らずにはいられません(Tコリント1:26〜31)。どこまでも人の前に体裁を保つことにこだわり主の恵みや臨在に関心がない者には、この喜びは理解できないからむしろ見下す方向にいくのです。どこまでも主の前で罪を認め、主の前で赦された喜びをささげていく者でありたいです。


ページの先頭に戻る