サムエル記U 9章
「一方的な恵み」
1節
ダビデが王になって、国も安定し周辺諸国との関係も落ち着き、ダビデは親友ヨナタンとの約束を果たそうとします(Tサムエル20:14〜17、23)。ヨナタンはサウル王の息子ですが、サウルがダビデの命を狙うことが父であるサウル自身の問題であることを冷静に受け留めていました。その父親のどうしようもない弱さを認めつつ、ダビデを助けようとします。このヨナタンのとりなしは、サウルに命を狙われて苦しむダビデにとって、大きな慰めだったことでしょう。
2〜7節
ダビデはサウル家の管理人ツイバを見つけ出し、ヨナタンの子メフィボシェテの存在を知ります。ダビデの命を狙っていたサウル王の孫でもあり、彼はダビデを避けてエルサレムから遠く離れたところでひっそりと暮らしていました。ダビデから呼び出され、サウル家の者として何をされるか分からない恐怖に怯えながら、メフィボシェテはダビデのもとにやってきます。しかしダビデは「恐れることはない」と語り、彼に祖父サウルの地所と生涯ダビデと王宮で一緒に食事ができるという恵みを約束しました。
8節
メフィボシェテは、ダビデ王に何か差し出すものがあったわけではないでしょう。両足もなえていたので、宮廷を守る兵士になることもできませんでした。ダビデはただヨナタンとの約束ゆえにこの恩恵を与えたのです。メフィボシェテは前王の末裔として処刑されてもおかしくない立場でした。それなのにこのような恵みをうけることになったのです。
「このしもべが何者だというので〜」と心から思ったことでしょう。ダビデ自身も、このメフィボシェテのように自分のことを表現しています(Tサムエル24:14、Uサムエル7:18)。ダビデ自身が、こんな死んだ犬のような存在、一匹の蚤のようなちっぽけな者に、神は何とすばらしい恵みの約束を与えてくださるのだろうと感動しています。ダビデ自身が神の恵みを体験していたからこそ、メフィボシェテにもこのようなことができたのでしょう。それは決して上から「恵んでやろう」という高い思いではなく、「自分もこんなちっぽけな者なのに神がこんなにもあわれんでくださった」という思いから出たものでしょう。心低い者には、すべてが神の恵みに思えるのです。
9〜10節
しかもツイバとその息子たちがメフィボシェテのために地を耕し、その産物をメフィボシェテに与えるようにダビデは手配しています。
11〜13節
メフィボシェテにはこの時ミカという子供がいました。彼はサウル王が死んだ時5歳でした(4:4)。その子がすでに結婚して子供がいたのですから、サウル王が死んでからダビデがヨナタンとの約束を果たすまで、かなりの年月がかかったことになります。国を整え、周辺諸国との関係を安定させ、この約束を余裕をもって果たせるまで時間がかかったのでしょう。しかしダビデはヨナタンとの約束を決して忘れませんでした。
メフィボシェテは、とても不思議な存在です。まるでエペソ書に出てくる異邦人である私たちのようです。王のいるエルサレムから遠く離れていたのに、王の近くに呼び寄せられました(エペソ2:13)。.自分が死んだ犬のような存在と認めました(エペソ2:1)。王の食卓に座る者となりました(エペソ2:6)。祖父の地を受け継ぎました(エペソ1:14)。ダビデの息子のようにいつも共に食事をしました(エペソ1:5)。死を覚悟していたのに、また何もお返しできないのに、一方的に恵みを受けました(エペソ2:5)。神は私たちにお返しなど求めておられません(ルカ14:12〜14)。「お返しせねば、役に立たなければ」というのは人間の側の勝手な思い込みです。神は私たちがこの恵みで生きるようになるまで、徹底的に「行為ではない、働きではない、お返しではない」ということを教えてくださいます。恵みによって思わず主がさせてくださる時には、自分の側に「やった!」という思いは残らず、主がさせてくださったという恵みの一つになっていくのです。私たち一人一人も、このメフィボシェテと同じ恩恵を神からいただいて生かされているのです。ハレルヤ!