「祈る時に大切なこと」       マルコの福音書11:20〜25


20〜21節

 いちじくの木は、標高の高いエルサレムでは、夏にならないと実が成りません。この時期は、過ぎ越しの祭りの頃で初春ですので、実が成る季節ではありません。それでも、勢いよく葉が茂ったいちじくの木を遠くからご覧になって、もしかしたら実があるかもしれないと、イエス様は思われました。けれど、葉の他は何もありませんでした(13節)。

 いちじくの木は、しばしば旧約でもイスラエルの象徴とされています(エレミヤ8:13、ミカ7:1)。勢いよく茂った葉を遠くから見て、何か実があるのではと期待させるが、近づいて見ると一つの実もないという状態は、正にこの時のエルサレムの霊的状態でした。活気もあり、にぎやかに人も集まっているが、エルサレムは、実のない空虚な状態でした。

 イエス様が「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように」と命じられたとおり(14節)、いちじくの木は、一日で根こそぎ枯れました。

 エルサレムも、紀元70年にローマの将軍ティトスにより滅ぼされます。「エルサレム陥落後、その廃墟を見た人が、かつてここに人が住んでいたとは信じられないほど何一つ残されていなかった、と言った」(歴史家ヨセフス)と歴史書に記されています。


22節

 イエス様は、勢いよく葉の茂ったいちじくの木を一日で根こそぎ枯らせるという神の力を現された後で、「神を信じなさい」と弟子たちに命じました。これは、原文では「神の信仰を持ちなさい」です。「神が与えてくださる信仰で、神を信じなさい」というような意味です。

 祈る時に大切なのは、「神を信じる」ことですが、まず神が、人にはできない偉大な力を具体的に見せて、信じられるようにしてくださるのです。祈りのための信仰も、神が与えてくださるのです。


23〜24節

 オリーブ山が死海に入るのは人間の常識では不可能です。でも「神にはできる」と、信じて祈るならそのとおりになるとおっしゃるのです。「そのとおりになる」という言葉が繰り返されています。

 反対に、「どうせ祈ってもだめに決まっている」と信じるなら、やはりそうなるのです。単純に信じて祈れないのは、まだそれほど切羽詰まっていないからかもしれません。あるいは、イエス様でなくても、他のものが解決してくれるかのように他の何かに頼っているからかもしれません。

 バルテマイ(10:46〜52)のように、「もうイエス様に助けていただく以外にどうしようもない」と、切羽詰まった状況が、単純な信仰を生み出していくことがあるのです。

 行き詰まりの中で、ただ神のみを信じて祈る、「信仰の祈り」が与えられていくのです。


25節

 もう一つ、祈る時に大切なこととして、「だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい」と命じられています。

 神礼拝と兄弟姉妹との交わりは、一つです。心の中で人を裁いたまま、また仲たがいして和解しないまま、祈ることはできないのです。聖霊は、私たちが真剣に祈ろうとする時に、それを明確に示されます。人を赦さないままでいると、自分自身が神から赦されたことにまで疑いが出てきて、神との交わりに壁ができてしまうのです(エペソ4:32)。

 だから、まず和解しなさいと主は命じておられます(マタイ5:21〜26)。

 気づかされても、「恨みを消せない、赦せない」と思える中で、でも主がおっしゃるからと、解決を求めていくなら、時間がかかったとしても必ず聖霊が助けてくださいます。

 イエス様は、ご自分の十字架の死が近いことをご存知で、弟子たちがこれからも神としっかり交われるように、祈りの方向性を示されました。

 ただやみくもに祈るのではなく、不可能を可能にする神の力を信じ、また祈ったことを主が実現してくださることを信じて祈りましょう。

 そして、キリストの十字架により、莫大な罪の借金が帳消しにされた自分であることをしっかり受け取り、感謝をささげましょう。



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