「神の前における良心のゆえに」       ペテロの手紙 第一2:18~25


18節

 この手紙が書かれた紀元63年頃は、ローマ社会に約6000万人の奴隷がいました。そのような階級としての奴隷だけでなく、家庭の中で下働きをするしもべたちも含めて、ペテロは助言しています。「尊敬の心を込めて主人に服従しなさい」と。そうすることによって、主人たちがやがて神をほめたたえるようになるためです(2:12)。服従しやすい主人に対してだけでなく、「横暴な主人に対しても従いなさい」と言っています。


19節

 しばしば、彼らは横暴な主人による「不当な苦しみ」に耐えなければなりませんでした。しかし神は、そのような状況で「悲しみをこらえる」のを喜んでくださるのです。この「喜ぶ」(カリス)は、「恵み」と訳される言葉です。同じ言葉が、ルカ6:32~34で3回使われています(「良いところ」と訳されています)。自分を愛する者を愛することや、自分に良くしてくれる者に良くすることは、「カリス」ではないのです。同じように、不当な仕打ちをする者に仕返ししたり、おどしたり、ののしり返すのも、カリスではありません。

 では、私たちはそのような不当な仕打ちを、どのようにしてこらえればよいのでしょうか?「神の前における良心(言語は「神の良心」)のゆえに」こらえるのです。ただ歯を食いしばってひたすら耐えるのとは違います。神の臨在をなお自覚し、そこにも神のみこころが何かあると信じて、こらえるのです。


20節

 罪を犯した結果打ちたたかれるなら自業自得ですが、善を行っていて苦しみを受けて耐え忍ぶなら、神の喜ばれることです。不当な苦しみに対して、仕返しするなら、結局同罪になります。


21~25節

 原語では、最初に「なぜなら」という言葉があります。キリスト者が苦難へと召されたのは、「キリストの模範」があるからなのです。「模範(ヒュポグラムモン)」は、子供が文字を習う時に用いるお手本のことです。キリストは、人々がその後について手習いするためのお手本を残されたのです。それは、

  • 不当に扱われた者の模範(22節)です。 罪も偽りもないのに、苦しみを受けた模範です。

  • 苦しみに耐えた者の模範(23節)です。 「ののしられても」「苦しめられても」は、どちらも継続の意味があります。ののしられ続けても、苦しめられ続けても、ののしり返さずおどすことをキリストはしませんでした。

 その忍耐の秘訣は、「正しくさばかれる方にお任せする」ことです。この「任せる(パラディドミー)」は、「だれかを裁判官に渡す」という場合に用いられました。キリストは、正しい裁判官、審判者である神に任されたのです。ですから、自分でののしり返したりおどしたりしませんでした。そして、キリストを主とする者に、この生き方を模範として残されたのです。

 最後に、キリストの贖いの死について、述べられます。それは、模範者の域を超えています。なぜなら、キリストの死は人類に救いをもたらすものであり、神の子キリスト以外に実現できないからです。

  • キリストは私たちの罪をその身に負われた方です(24節) キリストは、十字架において、ご自身を罪のいけにえとしてささげました。そしてキリストご自身が、すべての人の罪を負われたのです。

  • キリストが死なれたのは、私たちが「義のために」生きるためです(24節) 「罪を離れ」の「離れ(アポゲノメノイ)」は、過去に一回だけ起こった決定的な「離れ」を意味しています。「死んで」と訳してもよいでしょう(ローマ6:2~4)。キリストの打ち傷により、私たちの魂は癒されたので、キリストのために生きることができるのです。

  • キリストの死の結果(25節)

   以前の私たちは、「羊のようにさ迷っていた」のです。しかし、キリストの十字架の贖いを信じた私たちは、罪がきよめられ、魂の牧者であり監督者である神の元に帰ることができたのです。

 キリストは、その受けた苦難により、さ迷う多くの魂が神の元に帰ることができるという見本を残してくださいました。一粒の麦が死んで、新しい命を与えるように(ヨハネ12:24)、一人の人がキリストの苦難に従い、自分をささげることで、一人の魂が救われていくのです。誰かの救いのために苦しみもだえつつもキリストに従っていく時に、羊のようにさ迷っていた魂が神の元に立ち返る奇跡が起きるのです。

 不当な苦しみや、痛みを負う出来事の中でも、ののしり返したりおどす方向ではなく、神の御手に任せることを神は喜んでくださいます。苦難の中にも神のみこころがあると信じて、なお神の臨在を求めていきましょう。





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