「主を尋ね求める者」       詩篇34篇


 この詩篇は、ダビデがサウル王から追われて敵国ペリシテ人のガテに逃れた時に、歌ったものと言われています。ダビデはガテの王を恐れて、気が狂ったふりをして難を逃れました(Ⅰサムエル21:10~15)。


1~3節

 ダビデは自分の国に居場所がなく、敵国に逃げて荒野をさまよう生活の中でも、主をほめたたえました。「あらゆる時に」「いつも」、ダビデの口には讃美があったのです。 讃美は、自分の状況にかかわらず、神に絶えずささげるものです。試練の中での讃美が、ダビデに力を与えていきました。  

 ダビデがガテに追われた時に、貧しい者たちや弱い者たちがたくさん彼のまわりに集まっていました(Ⅰサムエル22:2)。彼らにも、「私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう」と、勧めています。大変な苦難の中で主をたたえるダビデの讃美を聞いて、貧しい者たちも喜びに満たされたのです。

 共に集まって、主を崇め、主を礼拝することは、大きな力となるのです。


4~7節

 ダビデは苦難の中で主を求め、主を仰ぎ見ました。本来なら、悩みによって暗く顔を曇らせているはずなのに、主を仰ぎ見ると、主が彼らを照らしてくださるので、輝いたのです。

 悩みや課題をじっと見つめていると、私たちの心は重たくなり、暗くなっていきます。 しかし、主を仰ぎ見るなら、悩みの中でも主が光を照らしてくださり、希望が湧いてくるのです。

 事実、主を恐れ主を求める者のまわりに、主の使いは陣を張り、取り囲むようにして助け出してくださるのです。


8~10節

 様々な苦難の中でも、主のすばらしさを味わい、苦難よりも上におられる方のすばらしさを見つめていくことが、主に身を避ける者の生き方です。  

 主を恐れる者には、乏しいことがありません。敵なしの若い獅子、百獣の王ライオンでも、乏しくなって飢えることがあります。しかし、「主を尋ね求める者」は、「良いものに何一つ欠けることはない」と、今人生の中でも最悪の状況にいるダビデが、断言しています。主を尋ね求める者にとっては、苦難も含めて、神が与えてくださる「良いもの」に含まれているのです。

 問題は、何を第一に求めているかです。「主を」尋ね求めているのなら、何一つ悪いものはないのです。


11~16節

 主のすばらしさを味わい、主を尋ね求める者は同時に、主を恐れ主に従っていきたいと願うようになります。どのように私たちが生きることを主が願っておられるのか、みことばに聞き、自主的に従っていきたいという願いが起きてくるのです。


17~22節

 私たちは、苦しみを通して、心が打ち砕かれていきます。しかし、主は心砕かれ、弱く貧しくされた者の近くにおられます。調子よく物事が進み、高ぶっている時には、どこかで自分を正しいとして、神に従おうとはしません。でも、心貧しくされ、打ちのめされている時は、「神様、どうすればよいですか?あなたの道を教えてください」と、謙虚に神を尋ね求めるようになります。

 多くの悩みがありますが、「そのすべての苦しみから」、主を尋ね求める者を主は救い出してくださいます。その究極の救いが、「たましいの贖い」です。「主に身を避ける者は、だれも罪に定められない」のです。

 人に責められることがあっても、主に身を避ける者は、神に「罪あり」とされて滅びることは、決してないのです。そのことを具体的に示すために、御子イエス・キリストが遣わされました。生まれながらに罪を負っている私たちのこの存在に代わって、罪なき神の子キリストが、十字架で丸ごと罪を負って死なれたのです。

 キリストを信じ、この方に身を避けるなら、神に罪を定められて死後のさばきを受けることはないのです。


 この地上では、荒野もあり苦難もあり、孤独や悲しみもあります。でも、神はご自身の民を贖い、決して罪に定めないと約束してくださっています。この究極的救いを、キリストを通して与えられたのだから、安心して主を仰ぎ見、そのすばらしさをいよいよ味わい、主の御顔を見つめていきましょう。

 「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」のです。苦難も、災いも、悲しみも、すべて含めて、神は霊的祝福として、良いものとしてくださいます。いよいよ、主ご自身を尋ね求め、主の御顔を絶えず慕い求めていきましょう。

     若い獅子も乏しくなって飢える。
     しかし、主を尋ね求める者は、
     良いものに何一つ欠けることはない。
            詩篇34篇10節




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