「起きよ光を放て」 イザヤ書60章
<1~3節>
前章で預言者イザヤは、暗黒の中を歩む恐怖と、神の裁きを免れるために罪が取り除かれる必要性を伝えました(59:1~2、9~10)。
そしてやがて、暗黒の中に贖い主が来られます(59:9~10)。贖い主イエス・キリストが、そむきの罪を悔い改める者たちのところに来られ、罪を取り除き、暗黒を引き裂く輝く光をもたらしてくださるのです。神の民はその神の光を反映させて生きるようにと命じられているのです。
「やみが地をおおい暗やみが諸国の民をおおって」いても、「主の栄光があなたの上に輝いている」のです。その主の輝きに照らされつつ、光を放っていくのです(2節)。
主の光を受けた者たちがその光を放っていく時に、国々も王たちも「あなたの輝きに照らされて光のうちに歩む」ようになるのです(3節)。主の光を受けた者たちが光を放っていくことで、国全体にも影響を及ぼしていくのです。
<4~9節>
「目を上げて、あたりを見よ」(4節)とは、神がアブラハムに語られたことでもあります(創世記13:14~17)。子どもを生むことができない妻サラと、いよいよ年老いていくアブラハムでしたが、その見える状況から偉大な神を見上げる時に、主は人の可能性を超えたことをしてくださるのです。
人間の常識では、アブラハムを通しておびただしい子孫が生まれるのは不可能でした。けれども、神は人間の不可能を超えて、ご自身の約束を実現してくださり、数えきれないほどのアブラハムの子孫を与えてくださいました。 その後子孫たちは、世界中に散らばり、自分たちの手で勝手に造った神を拝むようになってしまいます。
ここでイザヤは、生ける神の元から離れてしまったアブラハムの子孫たちが、再び主の元に帰って来ると預言します。神の民の集結の喜びを、活き活きと描いています(5節)。
四方八方から、生ける真の神を崇めるために、神の都に民たちが続々と帰って来るのです。地中海沿岸から帰ってきた者たちは海の富を(5節)、砂漠から来た者たちはらくだを、シェバから来た者たちは金と乳香を(6節)、それぞれ地域の特産物をささげ物として携えてきて「主の奇しいみわざを宣べ伝える」(6節)のです。
そして感謝のささげ物と神への讃美で、「主の家を美しく輝かせる」(7節)のです。 主を礼拝して主に仕える民たちを、主は輝かせてくださるのです(9節)
<10~18節>
これまでエルサレムは異教の王たち、外国の軍隊によって攻撃され、破壊され、略奪されてきました。けれども終わりの時には、敵であった彼らが「主の名のために」(9節)神の民たちに協力をするようになります。
彼らは、神の都を主の栄光で輝かせるために城壁を建て直し(10節)ます。
主の都は、主ご自身が平和と安全を与えてくださるので、「門はいつも開かれ」閉じられることがありません(11節)
諸外国からアブラハムの子孫たちが帰ってきて、主を礼拝し、主に讃美をささげて「聖所を美しくする」のです(13節)。
かつてエルサレムを攻撃し敵対していた国々さえも、新しいシオンを慕って来ます。「わたしが、あなたを救う主、あなたを贖うヤコブの全能者であることを知る」ようになります。
そして新しい主の都では、神ご自身が平和と義を与えてくださいます(17~18節)。
<19~22節>
太陽や月などを礼拝の対象とする人々も多くいましたが、そのような被造物に頼ることは止めて、「主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる」ときが来るのです(19節)。
神が用意しておられる新天新地では、「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わる」(20節)のです。 すべての罪が完全に贖われて「民はみな正しく」なるのです(21節)。
上下、強弱、大小関係なく、すべての者たちが平等に神の祝福を受けることができます(22節)。
完成は、すべてが新しくされる新天新地においてですが(ヨハネ黙示録21:1~4、23、22:5)、イエス・キリストの到来により、キリストの光を受けた者たちの上に、この神の恵みの事実がすでに始まっているのです。
キリストによって罪が取り除かれ、神の光の中を歩む者たちは、主を礼拝しながら聖所を美しく輝かせ、また暗やみの地にあって主の光を放ちながら「世界の光」として生きるのです。
散りぢりになった者たちも、主の輝きを慕って再び帰ってきます。
国々、王たちも光の中を歩むようになります。
そのように、キリストの光を放つ存在として、今地上に置かれていることを、今年しっかりと受け止めていきましょう。
起きよ。光を放て。
あなたの光が来て、
主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。
しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。
国々はあなたの光のうちに歩み、
王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。 イザヤ書60:1~3章