「敵意を廃棄されたキリスト」       エペソ人への手紙2:14~19


 パウロは、キリストによって新しくされた教会が、様々な違いを認めつつも、いよいよキリストにあって一つとなっていくことを願って、この手紙を書いています。


<14節>

 「彼(キリスト)こそ私たちの平和」であると、原語では「彼」が強調されています。平和そのものであるキリストこそ、異なった二つの民族を一つにし、隔ての壁を打ち壊すことができるのです。

 私たちが平和を自分のものとするためには、平和そのものであるキリストの元に行くしかありません。 争いや怒りが人に伝染するように、平和も伝染します。真の平和を持っておられる方と交わるなら、その平和が自然に心を支配していくのです。

 あらゆる人間関係に平和を願うなら、人や自分に向かうのではなく、いよいよキリストの元に行くことです。  

 社会の至る所で、違いが対立や争いを生み出しています。けれども違いは根本問題ではなく、争いを引き起こしていく人間の心の罪が問題なのです。キリストは、私たちがキリストの元に行くときに、その罪を取り除き、「二つのものを一つにする」ことがおできになるのです。


<15節>

 キリストは、「ご自分の肉において、敵意を廃棄された」のです。ユダヤ人と異邦人という本来相容れない二つのものを、キリストは仲介してくださったのです。

 普通の仲介者は、中立な立場で自分の安全を確保します。しかしキリストは、ご自身が傷つき十字架で死んで、二つのものを一つになさいました。

 キリストが十字架で死なれたのは、個人の救いのためだけでなく、それによって二つの異なった者たちの間から「敵意を廃棄する」ためでもあったのです。

 この「廃棄する」という原語は、「働かないようにする、無効にする」という意味があります。キリストによって、敵意が働かなくなったのです。敵意には、すごいエネルギーがあります。そのエネルギーが、復讐心を増長し、争い、戦争を引き起こします。キリストはその敵意というエネルギーを奪って、二つのものを一つにするために、十字架で死なれたのです。  

 「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです」。この戒めの律法を持たない異邦人を、ユダヤ人は軽蔑していました。そこから対立が生じたのです。

 しかしユダヤ人も異邦人も、皆キリストを信じるだけで神の子とされることで、隔ての壁は打ち壊されたのです。律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によってすべての人が救われることで、ユダヤ人も異邦人も、同じ神の子という立場になるのです。キリストにあっては、救いの条件も立場も、皆同じになったのです。  

 キリストは、「二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて平和を実現」してくださいました。「新しい(カイノス)」という言葉は、古いものが新しくなったのではなく、今までになかった全く新しいものを意味する言葉です。

 キリストによって、今までにはなかった全く新しい共同体が造られて、二つの異なった者たちが一つになったのです。教会は、そのような「新しいひとりの人」なのです。


<16節>

 そしてキリストによって、まず神と人との間に和解が与えられたのです。人間の罪が隔ての壁となって、神との関係が遮断されていたのです。しかしキリストがご自身を十字架でささげてくださったことにより、信じる者たちの罪が取り除かれ、きよい神と和解することができるのです。

 神との平和を取り戻した者たちが、同じ神の救いを受けた神の子として、これまでの敵意が取り去られ、「一つからだ」となったのです。


<17~18節>

 ここの「キリスト」とは、「キリストの御霊」(ローマ8:9~10、15:18~19)のことです。キリストは、かねてから約束したとおり(ヨハネ福音書14:17~20)、聖霊(御霊)として来られ、異邦人にもユダヤ人にも、平和の福音を語られました。

 どちらも、「一つの御霊において、父(神)のみもとに近づくことができる」のです。キリストを通して以外に、神に近づく方法はありません(ヨハネ福音書14:6)。 「近づく」の原語は、来賓を国王のもとに案内する時にも使われます。キリストは、王なる神に私たちを案内してくださる方です。

 そして「御霊」の助けなしには神に近づくことはできません。キリストが私の主であること、神との仲介者であることは、聖霊の助けなしには信じることができません(Ⅰコリント12:3)。このように、父・子・聖霊三位一体の神が、私たちを救いに導き、敵意を廃棄して一つにしてくださるのです。


<19節>

 「他国人」「寄留者」は、市民権を持たず、その土地ではよそ者扱いされることもありました。しかし社会的には他国人、寄留者であっても、キリストによって父なる神に近づくなら、「同じ国民」「神の家族」なのです。

 キリストのからだにおいて、よそ者はいないのです。地上の国籍は違っても、キリストの血によって罪きよめられて同じ「聖徒」とされ、天に国籍をもつ「同じ国民」なのです。キリストによって神の子どもとされたのですから、「神の家族」なのです。 

 平和なるキリストは、自分たちの基準によってさばき合い、敵意をもつ者たちを、父なる神に近づけることによって、「同じ国民」、「神の家族」とされました。キリストによって神と和解することは、人間同士の間からも敵意を働かなくさせて平和を実現するのです。神はそこまで願って、ひとり子キリストを世に遣わしたのです。

 自分自身の中にある「敵意」が問題なのです。キリストの救いを受けたのに、誰かに対して敵意があるなら、たえずキリストの十字架によりそれは処分されていくべき肉の残骸です。

 まず自分の中にある敵意を認めましょう。そして御霊に助けていただきましょう。

 人を変えようとすると、戦争になります。まず自分の中にある敵意を、キリストに廃棄していただきましょう。そのために、たえず平和そのものであられるキリストに向かいましょう。


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