「悔い改めに伴う痛み」 エズラ記 10章1〜44

イスラエルの民たちは祭司エズラと共に、バビロン捕囚からエルサレムに帰還しました。彼らのうちの非常に多くの民たちが、モーセの時代からその土地の宗教に染まらないため近づかないよう警告されていた異教の民たちと親しくなり、自分の子どもたちをその人々と結婚させていました。 それを聞いたエズラは、心を痛める他の民たちと共にひざまずいて神に祈りました。

<1節>

 エズラは涙ながらにイスラエルの罪を告白して祈っていました(9:6〜15)。大人も子どもも彼の元に来て大集団となって、激しく泣きました。


<2〜5節>

 その時シェカヌヤが、イスラエルが犯した罪を認め、今からでも主の命令に従うなら望みがあると、エズラに提案をしました。さらに、協力するので勇気を出して実行するようにと、エズラを励ましました。


<6〜9節>

 エズラは、神の前にひとり祈りに集中する必要を感じ、ヨハナン(恐らく祭司)の部屋で夜を過ごします。  その後エズラたちは、捕囚から帰還した民たちを集めました。第9の月(今の12月)は雨期で寒冷であり、神の言葉に背いた罪意識が芽生えて神への恐れも生じていたのか、民たちは震えていました。


<10〜17節>

 エズラは、シェカヌヤが提案したとおりに、民たちに罪を犯したことを指摘してカナン人などを妻とした者は彼女らから離れるようにと命じます。民たちは、必ずそのとおり実行すると約束します。 そして、民を代表するつかさたちがエズラの元に残って、問題処理委員会を結成して事に当たるようにしました。彼らは違反者リストを3か月かけて作成します。


<18〜44節>

 異宗婚者の名簿です。祭司やレビ人も含め、合計111人の名前が記されています。44節では、子どもを含め、離別する苦悩と困難があったにもかかわらず、実行して主に従ったことがわかります。 罪の実は苦く、尊いものを得るために代価を払うことになります。

<まとめ>@ 罪を犯してもやり直しができる(2節) 罪を犯したことの痛みはありますが、それで断ち切られ滅ぼされるわけではありません。 シェカヌヤが勧めたように、自分の具体的な罪が知らされた時には、神の前にその罪を悔い改めましょう。そしてその罪のために為すべきことがあれば、実行していきましょう。

A 神の御前にひとり立つ祈り(6節) エズラは、民たちの大集団と共に祈った後、ヨハナンの部屋でひとり民たちの罪を嘆き祈りました。兄弟姉妹と共に祈ることと、ひとりで主に向かう祈りとの、両方が大切です。

B 悔い改めには痛みが伴う(3,44節) イスラエルの民は、不信の罪を悔い改めた時に、具体的にカナン人やヘテ人の妻子たちを追い出しました。 その結果、家庭には大きな痛みが生じました。神に従わないことは、結局は痛みをもたらします。最初から従うことが一番幸せなのです。そう分かっていても、従い切れない弱さが人間にはあります。 その痛みを通して、今、私たちはキリストの十字架を思います。 神の子が、本来は私たちが負うべきであった罪の痛みと苦しみを、十字架で代わりに担ってくだったのです。 キリストの十字架による罪の赦しがあるからこそ、私たちは痛みを感じつつも、安心して大胆に悔い改め、いつでも主の元に立ち返ることができるのです。

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