「神礼拝への渇き」エズラ記 2章1〜70


<1〜2節>

 ペルシャ王クロス(キュロス2世)の勅令により、11人の指導者(2節)のもと、バビロン捕囚の民たちは解放されてエルサレムとユダに戻ります。この11人の指導者たちは、神殿の再建と、そこでの礼拝を実現するために選ばれました(箴言11:14)。


<3〜35節>

 ユダヤに帰還した人々が、どの部族やどの地域に何人属していたか、詳しく記されています。  

 バビロンからエルサレムへの長い道のりを帰って行くには、一人ひとりの信仰の決断があり、神への応答がありました。この帰還者リストの背後からは、一人ひとりの神礼拝への渇きと、信仰の息吹を感じます。  

 リストの最初に記されているのは、パルオシュ族です(3節)。パルオシュとは、直訳すると「のみの子ら」という意味です。「のみ」は、「取るに足りないもの」を表すときに使われています(Tサムエル24:14,26:20)。そのような氏族が、最初に挙げられています。21〜35節は、エルサレム周辺の地名ごとの人数が記されています。  

 このようなリストを、克明に作成し記録するのは大変な作業だったことでしょう。神がなさった事実、そしてその恵みに与った人たちの名簿などを記録しておくことで、神のみわざを客観的に後代に伝えることができます。教会の歴史や名簿の管理、記録も、神のわざを後世に伝えるための大切な働きです。


<36〜58節>

 祭司と補助者たちのリストです。祭司の合計は、4,289名で、全集団(64節)の1割以上になります。レビ人は、歌うたい(神殿で礼拝音楽を担当)と門衛(神殿の開閉と宝物蔵を守る人たち)を併せて、総数341名になります。「宮に仕えるしもべたち」と「ソロモンのしもべたちの子孫」(43〜58節)は、神殿の補助者たちです。


<59〜63節>

 家系を証明できなかったため、正統なイスラエル人として認められなかった人々です。特に祭司職に関しては、厳密な系図による証明が求められました。帰還した民たちが、異教的な要素を取り除き、純粋な信仰共同体を築くことを熱望していたからです。


<64〜67節>

 全集団は42,360名ですが、ここのリストの合計は、29,818名です。全集団には、エルサレムに残留していた少数者や他地域からの帰還者なども含まれていたと思われます。 64節の「集団」は、ヘブル語をギリシャ語に訳した70人訳聖書では「エクレーシア」となっています。新約聖書において「教会」と訳されている言葉です。主の御声に従って前進する共同体は、建物がなくても「教会(エクレーシア)」なのです。


<68〜70節>

 大集団のエルサレムへの旅は終わります。廃墟となったエルサレムの神殿を訪れ、ある者たちは、「神の宮のために自分から進んで」「自分たちにできることとして」ささげものをしました。

 旧約の時代には、民たちが神の御前に出て行ける唯一の場所が神殿でした。ですから神殿再建は、神との関係の回復を意味します。それで、民たちは全力を尽くして、神殿再建のためにできることをしたのです。


(まとめ)

◇ 私たちは神の教会史に名を刻まれた一人ひとり

 バビロンからエルサレムに帰還した民たち一人ひとりを、神は覚えていてくださり、聖書には部族や地域ごとの人数が記されています。そして今も、その共同体(エクレーシア)は、新約の教会(エクレーシア)として続いています。この壮大なエクレーシアの中に、私たち一人ひとりも置かれ、神に名を覚えられているのです。


 ◇ 礼拝を生活の第一とする

 バビロン捕囚から帰還した民たちの最大の関心事は、神を礼拝する神殿再建でした。リストには、神殿のために仕える人々が大勢います。私たちも、神の民として最高の礼拝をするために、奉仕者を整え、祈りと心を注ぎましょう。そして、何よりも礼拝を優先しましょう。  

 シオンへの大路のある人(神を礼拝することを何よりも喜びとする人)は、涙の谷を過ぎる時も、そこを泉のわく所とし、力から力へと進みます(詩篇84:5〜7)。初代教会では、毎日が礼拝でした(使徒2:46)。


 ◇ 奉仕もささげ物も、自主的にできることをしていく

 帰還した人々は、神殿再建のために、自ら進んでささげ物をしました。ささげ物は、どこまでも自主的なものです。奉仕もそうです。人から頼まれたからといって嫌々することではありません。主の恵みによって喜んですることは、他の人からは大変に見えても、本人は辛いと感じないのです。  

 すべての人が、自分にできることを喜んでしていくなら、教会は動いていきます。 一人ひとりが、主から与えられていること、喜んでできることを、主のためにしていけばよいのです(Uコリント9:6〜8)。  


 神を礼拝することに飢え渇き、礼拝を心待ちにするなら、礼拝を最大限整え、礼拝に備えたいという思いになります。「皆が気持ちよく喜んで礼拝できるために、神の臨在と恵みが満ちあふれる礼拝をささげるために、自分は何ができるだろうか?」と考え行動するようになるでしょう。

 エルサレムに帰還した捕囚の民たちは、礼拝への渇きが大きく、彼らの心、ささげ物、、働き、すべてが礼拝に向かっていました。私たちも、そのような渇きを持って、礼拝をささげましょう。

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