「痛みと希望を持つ共同体」エズラ記 3章1〜13


<1節>

 バビロンから帰還したイスラエルの民たちは、自分たちの町々に住みつきましたが、第7の月(太陽暦で9〜10月)が近づくと、いっせいにエルサレムに集まって来ました。この「いっせいに」のヘブル語の原語の直訳は、「ひとりのように」です。民たちは神殿再建という同じ目標に向かって思いを一つにして、ひとりのように集まって来たのです。

 この後様々な妨害もありますが、神を礼拝したいという彼らの共通の求めが、それらを打ち破っていきます。各自がバラバラの方向に向かっていたら、神殿再建は実現しなかったのです。


<2〜3節>

 神殿再建に先立ち、民たちが最初に行ったのは、祭壇の再建でした。祭司ヨシュアとゼルバベルの指導のもと、「律法に書かれているとおり」に祭壇を築きました。

 それは、イスラエルが、みことばを軽んじ神を侮って偶像崇拝の罪を犯しために、バビロン捕囚の身となったことへの反省からの行動でした。痛みを通して、もう一度神のことばに従って生きようという思いが、民たちの中に育っていたのです。

 彼らは、ソロモンが建てた神殿(第1神殿)があったところに祭壇を築きました。そこはかつてダビデが祭壇を築いたところであり(U歴代誌3:1)、アブラハムがイサクをささげた場所でもあります(創世記22:2)。

 その場所で民たちは、朝ごと夕ごとに全焼のいけにえをささげました。礼拝とは、このように積極的にささげていくもので、とてもアクティブなものなのです。ボーっとしていたり、ウトウトしながら礼拝はできません。自分自身を積極的に神に生きた供え物としてささげていくのが真の礼拝です(ローマ12:1)。


<4〜7節>

 律法にあるとおり、民たちは仮庵の祭り(レビ23:42〜43)を祝いました。この祭りは、後にバビロン捕囚からの帰還を記念する祭りとなります。  

 民たちは「定められた数にしたがって」日々の全焼のいけにえをささげました。それに加えて、自発的なささげ物が、かなりささげられています。バビロンから帰還したばかりで、民たちの生活は決して楽ではありませんでしたが、ここまで導いてくださった神への感謝と、神殿再建への熱い思いが、このような自発的なささげ物へとなっていったのです。  

 ささげ物は、本来このように痛みを伴う犠牲的なものです。礼拝も、自分の心や思いをささげるので、痛みが伴います。自分の思いと神の思いがぶつかり、格闘するのが礼拝です。そして、最終的に、砕かれた心をささげるのです。  

 ですから、本来礼拝とは痛感謝(造語)なものなのです。  

 第7の月から、民たちは全焼のいけにえを、規則正しくささげ続けました。礼拝は、規則正しくするものです。イエス様も、「いつものとおり安息日に会堂に入り」(ルカ4:16)とあります。規則正しく、毎週、毎日、神への礼拝をささげることで守られていることが沢山あるのです。


<8〜10節>

 霊的にも物質的(7節)にも整えられ、翌年第2の月(太陽暦で4〜5月)に、神殿再建の工事 が始まりました。これは第1神殿の工事の開始月と同じです(T列王記6:1)。丁度準備も整い、気候の良い時期でもありました。

 主の神殿の礎が据えられると、主への讃美がささげられます。恐らくダビデの作った詩篇が用いられたことでしょう。


<11〜13節>

 主が契約を守り、自分たちを再びイスラエルに帰らせてくださったことを感謝しながら、詩篇136篇などを交唱します。すると、バビロン捕囚前の神殿を知る者たちと、そうでない若者たちとで、反応が別れました。  

 「最初の宮を見たことのある多くの老人たち」は、目の前で宮の礎が据えられた時に、大声をあげて泣きました。ソロモン時代の立派な神殿と比較する思いもあったかもしれません。第1神殿が破壊された原因であるイスラエルの罪に対する悲しみもあったでしょう。またそれでもあわれんで、再びこの地に立たせてくださる神の恵みへの感謝もあり、様々な思いが錯綜して泣いたのでしょう。  

 一方捕囚前のエルサレムとその神殿を知らない世代は、何も無いところに神が礼拝の場所を与えてくださることからの希望で、喜びの叫び声を上げています。比較するものがないので、無から有を起こしてくださる神への希望に溢れていたのです。  

 信仰共同体(エクレーシア)である教会は、いつもこの喜びと悲しみが交錯しています。痛みと希望が入り混じりながら、神の約束を信頼して、与えられた物や賜物をささげ、主に仕えていくのです。


◇ まとめ ◇

○ 神殿再建の前に、祭壇の再建が大切

 何をするにも、まず神を拝する場所(祭壇)を築くことが大事です。いくら立派な建物を建てても、肝心の自分自身をささげる礼拝が確立されていなければ、建物の立派さだけが目立つ中身のない神殿になってしまいます。

 人間の働きや、見える結果に人の心は向かいやすいですが、土台は神への祭壇です。主との関係です。神を礼拝することを、何よりも尊び、優先しましょう。

○ 痛みを通して、みことばに従うことを学ぶ

 イスラエルの民たちは、みことばを少しずつ軽んじていくうちに、神を侮り、偶像崇拝の罪を犯しました。そしてその結果、エルサレムは破壊され、民たちは捕囚の身として辛い時期を過ごしました。その反省から帰還後は、律法に従って、みことば通りに、神殿再建をするよう心がけたのです。

 私たちは、痛みや試練を通して、みことばに従う者へと変えられます。苦しみを通して、みことばを学び、みことばに従うことの幸せを体験するのです(詩篇119:67、71)。

○ 教会(エクレーシア)は常に痛みと希望がある共同体

 キリストが教会のかしら(主)ですから、教会には常に希望があります。同時に、過去の痛み、一つになれない悲しみ、そして罪との戦いも常にあります。喜びと悲しみが混然一体となっているのが、地上の教会です。それでも、主が与えてくださっている志を一つにして前進し続けていくのが教会なのです(ピリピ2:2)。

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