「神に従う時に受ける妨害」エズラ記 4章1〜24


 バビロン捕囚から解放されてイスラエルに帰還した民たちは、エルサレムの神殿再建のための定礎式を終えます(3章)。定礎式は、主への感謝と喜びが満ちあふれる感動的な礼拝でした。
 けれどもその後の神殿建設は、決して順調に進んで行くわけではありませんでした。


<1〜6節>

 北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされた際に(紀元前722年)、他の地域から移住させられた人々の子孫(後のサマリヤ人)たちは、ユダとベニヤミン(帰還したイスラエルの民たちの総称)がエルサレムに神殿を再建すると聞いて、イスラエルの指導者たちに近づいてきます。  
 多神教の彼らは、イスラエルに移住させられるまで拝んでいた神とともに、イスラエルの神も礼拝していました(U列王記17:24、27)。彼らは自分たちも同じ神を求めているのだから、神殿建設に協力したいと申し出たのです。
 それに対し、イスラエルの指導者たちは、申し出を断りました。サマリア人たちがたとえイスラエルの神を求めていても、多神教の彼らともに神殿を建てることはできないのです。協力したことで、彼らも神殿を使うようになれば、様々な偶像が持ち込まれて、イスラエルも多神教の影響を受ける可能性があります。  
 サマリヤ人たちは、イスラエルが申し出を拒否した途端に、露骨に神殿再建を妨害するようになります。その執拗な妨害のために、神殿再建は、ペルシャ王クロスの時代からダリヨス王の時代まで、16年間中断されます。ダリヨス王時代に建設は再開しますが、その後アハシュエロスの治世(在位紀元前486〜465年)でも妨害は続きました。


<7〜16節>

 執拗なサマリヤ人の妨害がありながらも、神殿は紀元前516年に完成します。  ペルシャ王アルタシャスタ(在位紀元前465年〜424年)の時代には、もう神殿が再建されていましたが、なお妨害は続きました。  
 後に、アルタシャスタ王は、エズラとネヘミヤをエルサレムに派遣しており、ユダヤ人には好意的でした。ですから、ここの出来事は、彼が王になって間もない若い頃のことでしょう。  
 サマリヤ人たちの陰謀により、「エルサレムを非難」する手紙がアルタシャスタ王に送られました。その内容は、ユダヤ人をそのまま放置していたら、彼らの反逆により王の名誉も土地も失うことになるというものでした。


<17〜24節>

 アルタシャスタ王は、ユダヤ人たちの過去を調査させ、手紙の内容を事実と断定します。王は、経済的損失、権威の低下、領土の喪失を恐れたため、サマリヤ人たちの悪意ある手紙をそのまま鵜呑みにしてしまいます。  


< まとめ >

◇ 受け入れるべきことと、断るべきこと

 神殿建設に、サマリヤ人たちが協力したいという申し出を、イスラエルは断りました。  
 サマリヤ人の中に、協力することで建設を中止させたり、あるいはこの地での勢力拡大を狙う意図があった可能性もあります。仮に純粋な思いであったにしても、多宗教のサマリヤ人が関わることで、イスラエルも偶像崇拝に陥ったり、霊的にダウンしたりするリスクが十分にありました。  
 神礼拝においては、決して妥協してはいけません。それに今は良くても、後々に与える影響を考えると、あえて断る方が賢明な場合もあります。  
 「神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられることか」をわきまえる必要があります。そのためには、たえず神を礼拝する中で、自分自身が変えられ続ける必要があります(ローマ12:2)。


◇ 悪意ある言葉を捨てよう

 サマリヤ人たちは、協力を断ったイスラエルに執拗な嫌がらせを続けました。そして事実をも悪意を持って王に報告することで、王がイスラエルに不信感を抱くようにしています。  
 私たちの心の中に第三者への否定的な感情があると、事実であっても、その人を貶(おとし)めるニュアンスで伝わります。それは人格を傷つけるような悪口を言ったのと同じになります。人を中傷しながら人々の間を歩き回ることは、人の血を流す殺人と同じです(レビ19:16)。   
 悪意を持って人の中傷をする時、聖霊は悲しまれます。聖霊の助けを求めて悪意を捨てさせていただきましょう(エペソ4:29〜31)。


◇ 神に従う時に、妨害はつきもの

 エルサレムの神殿再建は、ペルシャ王クロスを通して神が命じたことです(1:1〜3)。神に従っていく時に、様々な妨害や気力を失うような出来事が起きてきます。  
 それは聖書通りのことです。  
 たとえ中断することがあったとしても、あきらめずに祈り続けましょう。主のみこころなら、また再開します。希望を持ってその時に備えましょう。  
 キリストにあって生きようとするなら、大なり小なり迫害はあります(Uテモテ3:12)。  
 ですから「神の武具」をしっかり身につけましょう(エペソ6:11〜18)。 それに、反対を受けることで、信仰が練られ、キリストとの食事の交わりが深められるのです。  
 主に従う時に、妨害や気持ちをくじかれることは必ず起きてきます。そこでいよいよ主の元に行きましょう。

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