「主の御手」 エズラ記 7章1〜28

<1〜6節>

 「これらの出来事」とは、バビロンによってエルサレムの神殿を破壊されたイスラエルが、ペルシャの王たちのバックアップを受けて、無事に神殿を再建し終えた(紀元前515年)ことを指しています。  
 ペルシャのアルタシャスタ(1世)王の治世(紀元前465年〜前424年)に、エズラが登場します。エズラは、祭司アロンの直系です。系図を大切にするユダヤでは、そのことで信頼が得られ、エズラの活動は助けられました。  
 彼は、バビロン捕囚からイスラエルに帰還した祭司であり、「モーセの律法に通じている学者」でした(6節)。 この「学者」という言葉は「書記」とも訳される言葉で、王の書記官などの高級官僚を意味しています。 ペルシャ政府が、特にエズラにユダヤ人の宗教改革をさせるための責任と特権を与えるための役職であったようです。  
 「彼(エズラ)の神、主の御手が彼の上にあったので、王(アルタシャスタ)は彼の願いをみなかなえた」(6節)のです。アルタシャスタ王はエズラと親交を深めていく中で、知恵に満ち、敬虔と謙遜を備えたエズラを信頼するようになり、ユダヤに対する偏見を捨てていったようです。そして何よりも、「主の御手が彼の上にあった」ので、王からこのような信頼を得ることができました。
 恐らく、エズラが王に願ったのは、エルサレムに帰還して、エルサレムの人々の霊的指導をすることでしょう。その願いが実現したのです。
 エズラがアロンの家系であっても、学者として知性が優れていても、彼が「主の御手」を意識しなければ、神の民の指導者として遣わされることはなかったでしょう。


<7〜10節>

 アルタシャスタ王の第7年(前458年)に、エズラは多くの人々と共にエルサレムに帰ってきました。「エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めて」いました(10節)。
 エズラ自身が、みことばで教えられ、みことばを実行して生きることを大切にしていました。ですから、彼と同じようにイスラエルの民たちもまた、神の言葉によらなければ、養われ成長することはないと理解していました。  
 見える神殿が再建されて、すでに50年以上経っていました。けれども、民たちの霊的再建はまだこれからでした。神殿再建にも様々な妨害があって大変でしたが、その神殿で神を礼拝し続け、みことばによって成長し続けていくのは、さらに大変でもあり、また大切なことです。
 パウロも、救われた人々のうちに、「キリストが形造られるまで、産みの苦しみをしている」と述べて(ガラテヤ4:19)、みことばによる教育の苦闘を告白しています。
 みことばを学ぶだけでなく実行し、みことばで互いに成長していくことに「心を定めて」いくのが大事です。私たちもしっかり、みことばによる教会形成がなされるように祈っていきましょう。


<11〜26節>

 エズラは、アルタシャスタ王に信頼され、王からの手紙を受け取ります。 内容は、

  @ イスラエルの民でエルサレムに行きたいものは自主的に行くように(13節)
  A 律法に従ってエルサレムを調査することがエズラに託された役割である(14節)
  B エズラを信頼して、王と議官の献金を託すので、礼拝に必要なものは何でも備えるように(15〜20節)
  C エルサレムを担当する役人は、エズラが求めることには全面的に協力するように(21〜24節)
  D 裁判官の任命権、律法に関する教育などをエズラにゆだねることなど(25〜26節) です。


<27〜28節>

 エズラの神への讃美です。「主の宮に栄光を与えるために」、主なる神は、王にエズラをバックアップさせて、エルサレムに遣わし神礼拝とみことばによる指導をするようにしてくださいました。それはエズラのためではなく、主の栄光のためです。
 そしてさらに、「議官と、すべての王の有力な首長の好意を」エズラが受けられるようにも、神はしてくださいました。このように、「主の御手が」エズラの上にあったので、エズラは奮い立つことができたのです。すべては、主の栄光のためであり、すべては「主の御手」によるのです。


〈 まとめ 〉

○ 「主の御手」を意識しましょう(6、9、28節) 偶然に無意味に起きていることは、何一つありません。私たちは「主の御手」によって守られ、導かれています。どのような出来事も、「主の御手」の中で起きていること、そこから私たちが受け取るべき真理があることを心に留めましょう。

○ みことばによって養育していくことに心を定めましょう(10節)  エズラは、主の言葉によって、イスラエルを養育しようと心に定めました。神の民は、神の言葉によって成長します。キリストのからだである教会も、みことばによって成長します。日々みことばを食べて実行し、みことばを互いに分かち合っていくことに心を定めましょう。

○ 神の国建設のために自主的にささげましょう(13節)  人から言われて嫌々するのではなく、自分から進んでささげ仕えましょう。神の国は、このような「自主的な」働きとささげものによって、前進していきます。そして神も私たちが自主的に自分をささげるのを喜んでくださいます(Uコリント9:7〜8)

○ 「主の栄光のために」主の御手があることを忘れないようにしましょう(27〜28節)  私たちが、神の国のために奮い立てるのも、人々の好意を得て神の国のために仕えられるのも、すべては主のご配慮であり、主の御手によるのです。
 私のためにではなく、「主の栄光のために」、主の御手が私たちの上にあるのです。(Tコリント10:31、Uコリント13:8)。そのことを忘れないようにしましょう。


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