「強力な神の守り」 エズラ記 8章1〜36
<1〜14節>
エルサレムに第2神殿が建って、約60年が過ぎます。ペルシャ帝国アルタシャスタ王の時代に、人々と共に祭司エズラが4か月かけて、バビロンからエルサレムにのぼります(前458年)。バビロン捕囚からの最初の帰還に比べると少人数ですが、エルサレムへの帰還は継続的に行われていました。
<15〜20節>
エルサレムに帰る一行がアハワに流れる川のほとりで宿営した時に、レビ人がその中に一人もいないことにエズラは気付きます。レビ人は、神殿での奉仕と民たちを教える役割を果たしていました。エズラが今回の使命(7:10)を果たすためには、どうしてもレビ人が必要でした。そこで彼は、レビ人の共同体があるカシフヤ地方のかしらイドのもとに人を遣わしました。
イドたちは、エズラに与えられた神からの使命を聞き、その働きのためにふさわしい「思慮深い人」を選びました。さらに、レビ人とレビ人を助ける人々も指名されて連れて来られました。
<21〜23節>
当時の長旅は、強盗や野獣に襲われることがしばしばありました。しかも神殿で用いる高価な物を運んでいたので(25〜27節)、狙われるリスクもあったのです。ですから、道中の無事が守られるように、エズラと民たちは、断食をして神の前にへりくだって祈りました。
本来なら、王の勅令でエルサレムに行くのですから、護衛を頼むこともできました。けれども、かつてエズラたちは王に「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたため、あえて護衛を依頼せず、神の守りだけを求めて心を合せて祈ったのです。
ネヘミヤが帰還する時には、護衛を付けているのですから(ネヘミヤ2:9)、エズラの場合には、護衛を断るのが証しになると思ったのでしょう。
護衛を断るのが信仰的で、頼むのが不信仰というのではありません。どちらもその時その時に、主に祈って聞きながら決めればよいのです。
<24〜30節>
高価な器類は主へのささげものとして、聖なるものとされました。祭司たちは交代で寝ずの番をし、それらを大切に管理し守りました。
<31〜34節>
道中敵の手や待ち伏せをする者たちもありましたが、「神の御手」がエズラたち一行の上にあったので、それらの危険から神が守ってくださいました。
神の守りとは、危険なことや災いと思えることが何も起きないのではありません。むしろそのようなことが起きても、神がなお守ってくださるということなのです。その時は「どうしてこんなことが…」と思えても、最終的には神が最善に変えてくださるということなのです。
<35〜36節>
捕囚から帰還した人々は罪の赦しを求め、神への献身を表す「全焼のいけにえ」をささげて主を礼拝して、新しい生活を始めました。
エズラの働きは、政府の援助を受けつつ勧められていきます。これもすべて「神の御手」によることでした。
(まとめ)
○ 責任ある役割の選出(18節)
教会はキリストのからだであり、私たち一人ひとりには器官としての役割があります(Tコリント12:27)。ただし祭司やレビ人、また宮に仕える人を選ぶ時に、イドたちはあえて「思慮深い人」を選び指名しています。
初代教会でも、食事を配給する責任者を決める時には、「御霊と知恵に満ちた評判の良い人」を選びました(使徒6:3)。そうすることで、使徒たちは安心して「祈りとみことばの奉仕」に専念することができたのです。
ここで、「評判の良い人」というだけでは選ばれません。昨今の異端も「評判の良い人」を送り込んで来ているのですから。私たちは「御霊と知恵に満ち」ているかどうかを見極めるための祈りが必要です。
○ 人間的な守りよりも神の守りを信じて祈る(21〜23節)
人は先々のことを心配して、予防線を張ろうとします。けれども、どんなに先の不安のために策を立てても、完全な備えはできません。神の強力な御手を信じて祈ることが、一番の守りです。人間の守りは不完全です。
全能の神の御手の力を信じて、祈り備えましょう。主は必要でしたら、御使いたちに命じて、すべての道で守ってくださいます(詩篇91:11〜12)。
ただし唯一の敵である悪魔の攻撃には、日頃から「神のすべての武具」を身に付けて備える必要があります(エペソ6:11〜18)。
○ 事あるごとに神への礼拝をささげよう(35節)
無事バビロンから帰還した時、人々は全焼のいけにえをささげて主を礼拝しました。 具体的なささげものによって、罪の悔い改めと献身を表明しました。
私たちも主の守りを経験した時、新しい歩みを始める時など、大切な時にはまず主を礼拝しましょう。