「罪過の中で神の御前にいる」 エズラ記 9章1〜15
<1〜2節>
祭司エズラは、4か月かけて民たちと共にエルサレムに帰還しました。エズラがエルサレムに帰った目的は、「おきてと定めを教える」(7:10)ためでした。
エズラは、帰還後の様々な後始末や事務的働きを終えた後、つかさたち(各氏族の長たち)から重大な報告を受けました。それは捕囚から帰還した民たちが、モーセの時代から神が禁じていた国々の民と関わりを持ち(申命記7:1〜4)、彼らと彼らの息子たちがそれらの国々の娘たちをめとっているというものでした。
神がこれらの国々との関わりを絶つように命じられたのは、イスラエルを偶像崇拝から守るためでした。特に結婚において、伴侶から受ける霊的影響は強くありました。ソロモンでさえ、異邦の妻たちによって心を転じ、彼らの信じる偶像の神々に従うという罪を犯したのです(T列王記11:2〜4)。
<3〜4節>
エズラは、神が明確に禁じていることをイスラエルの代表者たちが中心になって勧めていることに、激しく動揺しました。そして「イスラエルの神のことばを恐れている者たち」と共に、夕方まで色を失い呆然としていました。
<5〜7節>
夕方のささげ物の時刻(出エジプト29:39、民数記28:8)になって、エズラはようやく気を取り戻し、ひざまずいて神に祈ります。民たちの罪を思い、その罪を自分の罪として受けとめ、神に向かって顔を上げるのも恥ずかしいとエズラは告白しています。そしてイスラエルがこれまでも繰り返し神への不信の罪を犯し、神の言葉を侮り、そのたびに他の国々の攻撃を受けてきたことを回想して祈ります。
<8〜9節>
繰り返し罪を犯し続けたにもかかわらず、神はイスラエルをあわれみ、異教の汚れから守られた「のがれた者」を残しておかれました。
そして「ご自分の聖なる所の中に一つの釘(天幕を固定するもの)を与えて」安全を確保してくださいました。イスラエルの民たちの目を明るく(生きる力を与え、神殿再建を通して神の導きの中を歩めるように)してくださるためでした。
奴隷の身(独立国ではない)であるイスラエルの民たちを神は見捨てることなく、ペルシャの王たちの好意を得てエルサレムの廃墟に神殿を再建させてくださいました。
<10〜14節>
こうして神は受けるべき刑罰よりも軽くし(滅ぼし尽くしはなさらなかった)、「のがれた者たち」を残してくださったのです。
にもかかわらず、今再びイスラエルは神の命令を破り、神の怒りを招いて絶ち滅ぼされても仕方ないような状況にあることを、エズラは憂い神に祈ります。
<15節>
エズラは「イスラエルの神、主。あなたは正しい方です」と告白します。主は常に正しい方です。私たち人間は不真実であり、間違うものです。
エズラは、自分を含む民たちの罪過を目の当たりにし、自分は正しい主の御前に本来立つことなどできない存在ではあるが、それでも今「私たちは罪過の中であなたの御前におります」と告白します。
(まとめ)
@ 神の言葉に従いましょう(1〜4節)
「主を恐れることは知識の初め」です(箴言1:7)。「主を恐れる」とは、主の言葉に従うことです。神の言葉に従う生き方を大切にすることです。神が命じておられるのは、私たちが従うことで守られ祝福されていく道なのです。
神の言葉に従うことが、幸せな生き方なのです。ある時は意味がわからなくても、納得できなくても、「私たちの造り主なる神の言葉だから」と、従っていくのです。私たちにはわからなくても、神はすべてをご存知です。その神を信頼して従いましょう。
A 神を恐れて、同胞や身近な者たちの罪をも痛み祈りましょう(4節)
祭司エズラの他にも、捕囚から帰ったイスラエルの民たちの不信の罪を、痛みとりなして祈る人たちがいました。神の御前から逃げるのではなく、他の人々の罪をも自分の罪として受けとめてとりなし祈りましょう。
罪過の中にあっても、私たちには、罪を弁護してくださるイエス・キリストがおられるのですから(Tヨハネ2:1〜3)、大胆に御前に出てとりなし祈ることができるのです。
B どこまでも主を正しい方としましょう(15節)
主の御前では、常に主が正しく、私たちは外れた者です(Uテモテ2:13)。どのような時にも、主を真実な方と告白しましょう。
自分の罪とともに、家族の罪、友人の罪、同胞の民たちの罪を痛み、主の御前で祈りましょう。 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Tヨハネ1:7)。