「女性の作られた目的使命」
T列王記11:1〜6
10章までは、ソロモンが神様から与えられた知恵によって、近隣諸国との関係を強固にし、イスラエルが豊かにされている状況が記されてきましたが、11章からは一転して、ソロモンの堕落と、それに伴うイスラエルの衰退が書かれています。
ソロモンの堕落には、パロの娘(3:1)はじめ、ソロモンの妻たちが大きな影響を与えています。外国の妻たちが、ソロモンの心を転じて、偶像に向かうように仕向けていきます。主がかつて、「彼らの中に入ってはならない」(2節)とおっしゃたのは、国際結婚を禁じたのではなく、異教の神に従わないようにとの配慮からでした。人間の情の弱さを主は知って、決定的な堕落につながる誘惑を避けるようにと、かつてそのように命じられたのです。ソロモンが、外国の女性たちと結婚したことにより、彼女たちを愛して離れなかった(2節)ソロモンは、彼女たちが信じる偶像に従うようになってしまいます(5節)。
人間の情は、善悪を判断する力を失わせます。男女の情、親子の情、友情によっても、一歩間違えると、人に心を奪われることになり、道徳観も大切にしてきた価値観も崩れてしまうことがあります。人間の情には、破壊的な力があるのです。だからこそ、神様に支配していただかないと、とんでもない間違えを犯してしまうのです。
ここでは繰り返し、妻たちがソロモンの心を転じて他の神々に従うように仕向けたことが強調されています(2節、3節、4節、5節)。
女性は、エバの時から、男性を誘惑し、男性が神の言葉にそむくように仕向ける習性があるようです(創世記3:6、Tテモテ2:14、Uコリント11:3)。しかしもともと神が人を造られた時には、女性は男性を助け、それ以上に神の目的を人が果たすための協力者として造られました。まだ人がアダム一人であった時に、神は「人がひとりでいるのは良くない」とおっしゃいました(創世記2:18)。それは一人ではアダムが寂しいからという理由ではなく、神が造られた目的を男性だけでは達成することができないという神の側の理由によって、男だけでは不十分だったのです。そこで、彼にふさわしい助け手(創世記2:18)として女性が造られました。
この「助け(エゼル)」は、神が苦しむ私たちを助けてくださる時と同じ助け(エゼル)です(詩篇46:1)。神の目的を人類が果たすための強力な助け手として、また男と女が協力して神の目的を遂行するために、神は女性を造られたのです。本来はそのような目的で造られたにもかかわらず、罪の堕落により、女は男が神に従うことを妨げる存在になってしまったのです。本来神が造られた目的を果たすためには、女性は(もちろん男性も)キリストによって新しくされなければならないのです(Uコリント5:17)。キリストは、女性(男性)が、本来神の造られた目的に生きることができるように、十字架で死んでよみがえられたのです(Uコリント5:15)。
古い生まれながらのエバの罪を引き継いだままの女性は、男をそそのかし、その心を神から引き離していくのが習性です。ですから、神との和解により新生していなければ、本当の意味で男を生かすことはできないし、結果として神が本来女性に与えておられる使命を遂行することもできないのです。でも女性がしっかりキリストに結びついていく時には、強力な男の助け手となり、それ以上に、神の戦士として存分に用いられていくのです。サタンは、そのことをよく知っているので、男と女が協力することを恐れて阻みます。「全部男にさせておけばいい」と言って、女性としての本分を果たさないようにさせたり、逆に「男がするより女の自分がする方が上手にできる」と思わせて、男と協力しないようにさせたりするのです。
神は、男と女が、神から与えられた互いの役割や領分を受け取りつつ、同じ神に従い、神が人を造られた目的を果たす協力者となることを望んでおられます。そのためには、女性は女性の肉の性質(男を助けるよりも、損ない神から引き離す傾向)を知り、キリストによって対処されていく必要があります。男は男で、情によって簡単に神から心を転じてしまう弱さを認めて、しっかりと神から与えられた使命に、聖霊に助けられながら心を向けていく必要があります。
結局ソロモンは、外国妻たちの誘惑により心を転じてしまい、主に従い続けることをしませんでした(6節)。主から知恵と力をいただいて、イスラエルの王としての働きをこれまでしてきたソロモンですから、その主から離れたら、とても国を治める力はありません。何もできない、ただ女性の言いなりになっていくだけの弱いソロモンでしかないのです。王であるソロモンが主に従わないことは、イスラエルの国にとっても致命傷だったのです。
ここから、国は衰退の道をたどっていきます。
ここで、ソロモンが「父ダビデのようには主に従い通さなかった」と記されています。実際の歩みは、ソロモンもダビデもそれほど変わりません。ダビデも、バテシェバとの不倫、そしてその夫を戦場で無き者にしたことなど、決してクリーンな人生を歩んではいません。戦士として、かなり血なまぐさい生き方をした人でもありました。しかしソロモンと違ったのは、罪を認めて悔い改め、何度も神に立ち返っていったことです。ですから、神に罪赦される幸いを知り、神の憐れみ深さにいよいよ触れていったのです(詩篇32:1〜5)。
罪を犯すことは、痛みを伴いますから、犯さない方がいいのです。しかしそれ以上に問題なのは、悔い改めないことです。
イエス様も、一人の姦淫の女が律法学者たちに連れて来られたとき、彼女を罪に定めませんでした。逆に律法学者たちの、罪を認めず、人の罪をとことんさばく、頑なな心を責められました(ヨハネ8:3〜)。またイエス様は、何回人を赦せばよいかを質問したペテロに、「7度を70倍するまで赦しなさい」(マタイ18:21〜22)とおっしゃいました。正に、イエス様ご自身が、私たちが悔い改めるなら、このように限りなく(7は完全数)赦してくださる方なのです。
あれほど失敗だらけ、罪だらけのダビデをも、その悔い改めゆえに、何度でも赦してくださり、「神に従い通した」と見てくださるのです。この神のあわれみをいよいよ知らされながら、私たちはこの方のために喜んで生きたいと願うようになっていくのです。
何度でもやり直しのチャンスはあります。今悔い改めてキリストを受け入れるなら、新しく造られた者として、神は私たちを生かし、主のために用いてくださいます。キリストにあって造りかえられた女性として、男性として、神の使命に生きる目的を与えてくださいます。たえず古い自分は過ぎ去ったものとして、神が切実に私たち人間に願っておられる生き方を求めていきましょう。