「人間的策略によらず」
T列王記12:1〜33
シェケムで王となったレハブアム(1節)のもとに、ソロモンに追われてエジプトにいたヤロブアムがイスラエルの全集団(問題意識を持った一団)とともにやって来ました(2〜3節)。
彼は、過酷な労働と重いくびきを軽くするように王に要請します(4節)。
レハブアムは、ソロモンに仕えていた長老たちにまず相談しますが、その内容が気に入らなかったのか、その助言を退けます。そして共に育ってきた若者たちに相談します(6〜11節)。
長老たちは、王だからと言って、権威を振りかざしたり、威張って人々を支配するのではなく、王が民のしもべとなって仕えるように勧めました(7節)。
これは、とても聖書的な助言であり、イエス様やパウロも同じような勧めをしています(マルコ6:10:42〜45、エペソ6:5〜9)。一方の若者たちは、レハブアムとの馴れ合いもあったのか、非常に浅はかな、しかしレハブアムの心をくすぐるような助言をします。結局レハブアムは若者たちの意見をとり、民衆の意見も退け、人々は幻滅してレハブアムから離れていきます(12〜16節)。
そしてユダの部族(ベニヤミン族含む)以外は、ヤロブアムを王として迎えますが、レハブアムは戦いをしかけて王権を奪回しようと試みます(17〜21節)。
しかし神の人シェマヤに神のことばがあり、レハブアムがイスラエル人と戦わないように命じます(22〜23)。
レハブアムは、この時は従って戦いを断念しました。レハブアムが長老の意見を退けて民衆たちの心が離れてしまったことも、ヤロブアムが王となったときにレハブアムが戦いをしかけないようにしたことも、すべて神のご計画が実現するために神ご自身がしむけたことでした(15、24節)。
こうして、ヤロブアムを王とする北王国と、レハブアムを王とする南王国ができ、イスラエルの南北分裂王国時代が始まります。
預言者アヒヤの預言どおりにヤロブアムは王となりますが(11:29〜39)、
ヤロブアムは神のみこころよりも、人々の心の問題を最優先しました。すなわち、レハブアムが治める南王国にエルサレムの神殿があり、人々が礼拝しにエルサレムに上って、再びレハブアムのもとに帰ることを危惧したのです(25〜27節)。
そこで金の子牛を造り、北イスラエルの南端べテルと、北端ダンに安置し、北イスラエルの人々の心を偶像で満たすようにし向け、神のみ前に罪を犯します(28〜30)。
また祭司はレビ人がなることが決められていたのに、自分勝手に祭司を任命し、宗教行事も考えだして人々の心を安心させようとしたのです(31〜33節)。
政治的な策略を立て、礼拝、祭司さえも民衆の心をとらえるために利用したのです。ヤロブアムが王となることは、預言者を通して神が言われ、神のご計画でした。しかしヤロブアムは、偶像を満たし、すべて神の決められたことを無視して自分勝手な策略を巡らし、神のみこころを損なっていったのです。
レハブアムも、ヤロブアムも、自分の思いや都合のよい意見を優先し、神のみこころを真剣に問うことをしませんでした。
人にも相談し、自分の思いも神に申し上げた上で、神のみこころを聞いていくなら、神は必ず答えてくださいます。自分の考えが間違っていたなら、そのことも祈りの中で教えてくださいます。人間的な策略は、神の前には粉々に砕かれていきます。私たちは、常に自分の思いや策略をうしろにして、神のなさることに目を向けていくべきです。自分の考えの愚かさを認め、間違う者であることを認め、神の知恵と主権を認めていくのです(箴言3:5〜7)。自分の悟りに頼らず、主を認めていくなら、主の知恵を教えてくださるのです。人間の知恵がいかに浅はかで、近視眼的なものであるかを認めて、神のみこころを求めていきましょう。