「神のことばにそむく罪」   
       T列王記13章

1〜2節

 イスラエルはソロモンの後、北王国と南王国に分裂します。北王国を治めたヤロブアム王は、人々が神殿のあるエルサレムに礼拝しに行く時に、南王国のレハブアムのもとに帰ることを恐れました。そこで北王国を偶像と宗教行事で満たし、レビ人以外にもたくさん祭司を立てて人々の心を安心させようとします。神は、ひとりの神の人(預言者)をユダからべテルに遣わして、ヤロブアムのそばで祭壇に向かって、ヨシヤ王による宗教改革と偶像崇拝に対する裁き(U列王記23:15〜20)を預言します。


3〜4節

 そして主がそのことを語られたしるしとして、「祭壇が裂けその上に灰がこぼれ出る」ことを叫ぶと、ヤロブアム王は彼を捕えようとします。しかし神がすぐに介入され、ヤロブアム王の手はたちまちしなびて、戻すことができなくなりました。


5〜6節

 そして神の人が預言した通り、祭壇が裂けて灰がこぼれ落ちました。また神の人が祈ると、王のしなびた手は元通りに戻ります。短い時間に、ヤロブアムは神の奇跡を立て続けに見ているにもかかわらず、神のことばに従って偶像崇拝をやめることはしなかったのです。


7〜10節

ヤロブアム王は、神の人によって民衆が感化されることを恐れたのか、あるいは彼を自分の権力化に置こうとしたのか、買収するかのように彼を招待します。しかし神の人は、王の陰謀的な申し出をはっきり断りました。それは主の命令でもあったからです。


11〜19節

 ひとりの年寄りの預言者が、ユダから来た神の人とヤロブアム王の出来事を息子たちから聞きます。そして預言者である自分に主が招待するように語られたとだまして、神の人を家に連れ帰りました。自分にはない預言者としての資質を感じたのか、あるいはヤロブアムに語ったことの意味をもっと聞きたいと思ったのかもしれません。


20〜25節

 しかし食卓についていた時に、べテルの老預言者に主からのことばがありました。それは、神の人が主のことばにそむいて飲み食いをしたことへの神の報いに関することでした。そして、その通りに、彼は帰りに獅子によって殺されることになります。神のことばを携えて来て、だまされたために神のことばにそむくことになってしまった神の人が、このような目にあったのです。


26節

 年寄りの預言者は、自分のしたことについては語らず、神の人が主のことばにそむいたことと、主のことば通りのことが起きたことを語りました。ある意味では不条理に思える出来事ですが、ここではあくまで、神のことばにどこまでも忠実であることの大切さが伝えられています。神の人は、この老預言者が「私もあなたと同じく預言者です」(18節)と言われて、彼のことばを鵜呑みにしてしまったのでしょう。しかし誰が語ったとしても、あくまで主が直接命じられたことに忠実であるべきなのです。たとえ預言者からそのように言われても、「本当にこれは主の命令ですか?」と主に問い直すべきでした。たとえ預言者が語ったとしても、神がおっしゃたことに従うべきなのです。


27〜32節

 べテルの老預言者は、また自分が嘘をついたこととこの一連の出来事を痛み悲しみながら、神の人を葬りました。もう一度預言者として、神の御前に襟を正されたことでしょう。


33〜34節

 この神の人の出来事は、ヤロブアム王に対しての警告でもありました。しかし、王は相変わらず神に従うことをせず、偶像を用いて北王国を治め、人々に偽りの安心を与えるために、志願する人をだれでも祭司に任命して、神に反逆しました。 神に従うとは、人のことばよりも神のことばを優先して従うことです。たとえ預言者であっても、自分より信仰歴の長い人であっても、間違うことはあるのです。だから聞いたことも「はたしてそのとおりかどうか」と、ベレヤの人たちのように聖書で吟味することが大事なのです。いつも聖書を通して神のことばに触れていないと、自分に都合のよい意見や、多数の意見に流されてしまいます。使徒たちは、常に人の声より神の声に従うことを優先していきました(使徒4:19〜20、使徒5:29)。この世の声や、人の意見に惑わされることなく、神のことばに従い続けていきましょう。




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