「砕かれない心」
T列王記14章
1〜3節
北王国でヤロブアムによる偶像政策が進められていく中で、ヤロブアムの子アビヤが病気になります。ヤロブアムは妻に、預言者アヒヤ(11:29〜39)のもとに行って、子供のいのちがどうなるかを尋ねてくるようにと頼みます。妻に変装させたのは、自分が神の道に歩んでいないことへの後ろめたさがあったからでしょう。自分の妻とわかったら、アヒヤは会ってもくれないと思ったのかもしれません。ヤロブアムは、ただ子供の今後のことを知りたいというよりは、子供のいのちが助かるように神にアヒヤから願ってほしかったことと思います。いざという時には偶像が助けてくれないことを、ヤロブアムは認めていたのです。わざわいの時にだけは、偶像でなく神に求めるイスラエルの姿と同じです(エレミヤ2:27〜28)。
4〜5節
ヤロブアムの妻がアヒヤのもとに行くと、アヒヤは年をとって目が見えなくなっていました。ですから変装をする必要はありませんでした。しかし主は預言者アヒヤにヤロブアムの妻が来ることも、彼女の要件も先に告げておられたのです。
6〜16節
アヒヤはヤロブアムの妻に、神ご自身がヤロブアムをイスラエルの王としたこと、それにもかかわらず、ヤロブアムは神に従うことを拒み、偶像で国を満たして悪を行ったと告げます。そして神をうしろに捨て去ったヤロブアムの家に、災いがもたらされることを予告します。
ここでもダビデが神に従い、神の目にかなったことを行った人の例として挙げられています。実際には、ダビデも神のみこころを損なうような罪を何度も犯しています。ただヤロブアムと違うのは、そのたびに悔い改めたことです。神はヤロブアムにも、何度も悔い改めの機会を与えていました。
13章でユダの預言者が警告を与えに来たこと、その時にもいくつもの神のしるしをヤロブアム自身も見たこと、ユダの預言者が神の命令を破った結果として起きたことなどを通して、悔い改めて神に立ち返ることができたのです。しかしヤロブアムは悔い改めませんでした。そして彼の息子アビヤの死が宣告されます。
幸いなことにヤロブアムの子アビヤは、「主のみこころにかなっていた」のです。信仰は一人一人の出来事でもあります。父親が神に従わなかったからといって、家族みなが神に従わないとは限らないのです。同じヤロブアム家でも、一人一人違うのです。主のみこころにかなっていたアビヤであるなら、決して早く死ぬことは悲劇ではないのです。父ヤロブアムは、子をなくす痛みを経験することになりますが、本人は主のもとに行くのですから幸いなのです。むしろ彼の死を通して、なお神はヤロブアムに悔い改めの機会を与えておられるのです。一人の死を通して、神は残された者たちに様々なメッセージ(悔い改めだけでなく)を語っておられるのです。
17〜20節
ヤロブアムの子アビヤは、預言どおりに死にます。そして主のみこころにかなう生き方を通したアビヤの死を、イスラエル中の人々が悼み悲しみました。ヤロブアムの業績は、年代記の書(王室の年代記録に関する書物)に記されました。彼は22年間、偶像政策をやめることなく続け、そして死にます。
21節〜31節
一方エルサレム神殿がある南王国も、偶像と異教の習慣をとり入れて、堕落の道をたどります。弱体化する中で、エジプト王シシャクがエルサレムに攻め上り、ソロモン時代の財宝を奪っていきます。北王国と南王国の分裂状態は、もはや回復不能でした(30節)。
神はヤロブアムに何度も悔い改めを促しておられましたが、彼は神に従うことを拒み続けました。いざという時には、偶像は助けにならないことを知っていましたが、ここまで偶像政策で治めてきたという自信や、今さらこれまでの生き方を捨てて神に立ち返るなどできないというプライドが、悔い改めることの妨げとなっていたのかもしれません。
でも神は私たちに、そんなプライドや古い自分のやり方を放棄して、神に向きを変えることを望んでおられます。単純に「頼るべきものを間違えていました。今あなたに頼りますから、あわれんでください、私のこれまでの罪をお赦しください」と神に祈ればよいのです。そのあとのことは、神が導いてくださいます。ダビデがそうであったように、神の前に悔いくずおれて行けばよいのです(詩篇51:17)。ダビデが自分の罪を認めて神のあわれみを求めた時に、神は何度でも赦してくださいました。「心を尽くして神に従った」人のモデルとされました(8節)。
問題は、私たちのプライドです。硬い石のような心が砕かれないと、神と偶像の間を右往左往して、中途半端な生き方を続けるしかないのです。神は、今私たちに自分自身を神に投げ出すよう求めておられます。放蕩息子のように、何もかも失い、傷だらけになって、ボロボロになったまま、何のお土産もお詫びの品もいらないから、手ぶらのままで、砕かれた心だけ差し出して、「今までの生き方に疲れました」と神の元に身を投げ出せばよいのです。神は、そのような砕かれた心を、何よりものささげものとして、嬉しいおみやげとして、受け取ってくださるのです。私たちが安心して心を注ぎだせる方、真の避け所となってくださる方は、神だけです。人に心を注ぎだしても少し軽くはなりますが、解決にはなりません。神は、私たちが神に、心を注ぎ出すことを待っておられます。悔いた、砕かれた心を、何よりものいけにえとして喜んでくださいます。「そんな頑張っているいけにえはいらないから、あなたの砕かれた心をささげてほしい」と願っておられるのです。