「あなたが主に拠り頼んだとき」
T列王記15章
1〜8節
南ユダ王国では、ソロモンの子レハブアムが死に、その子アビヤムが王となります。アビヤムも、父レハブアムがエルサレムを偶像で満たしたように同じ道を歩み、罪を犯します。しかし神は、「ダビデに免じて」、一つのともしびとして、その子アサによりエルサレムを堅く立てられます。ここでも、ダビデは主の目にかなった者として記されています。「ヘテ人ウリヤのことの他は」というのは、不倫したバテシェバの夫ウリヤを死に追いやったことが彼の代表的な罪として強調されているだけで、他に罪を犯さなかったわけではありません。でも悔い改めの生涯を送ったダビデは、その子孫まで神の恩寵を引き継ぐことになったのです。
9〜15節
アビヤムの後任であるアサ王は、エルサレムで宗教改革を断行します。アサ王は、エルサレムから異教の習慣や偶像を徹底的に取り除きました。またアビヤムの母であるマアカ(2節)が、アサ王の時にも王母を引き継いでいましたが、アシェラ像崇拝に熱中したため、その位を退けます。またレハブアム、アビヤムによって荒らされ取り出された神殿の聖別したものを元に戻して、神殿を整えることに力を入れました。
16〜24節
アサ王の時代であっても、北王国との分裂が解消することはありませんでした。またアサ王は、北イスラエル王国のバシャが侵攻しようとラマを築いた時に、アラム王ベン・ハダデと同盟を結ぶために、「残っていた銀、金をことごとく」用いていきました。そして同盟を結ぶと、バシャは南ユダへの侵攻を中止します。アサ王は、バシャがラマの町を築くために運んだ石材や木材で、ゲバとミツパを建て、自国の防御を強固にします。
25〜34節
一方北イスラエル王国は、国政のために国中を偶像で満たし、神のみこころを損なったヤロブアムに代わり、ナダブが王になります。ナダブも、ヤロブアムと同じ偶像崇拝により罪の道を歩み、北王国はいよいよ弱体化していきます。そしてすでに17節以降で出ているバシャが謀反を企ててナダブを打ち、ヤロブアムの全家を根絶やしにしました。これにより、預言者アヒヤを通して主が語られたことが実現したことになります(14:6〜12)。
バシャ王は、ヤロブアムの家系ではありませんが、生き方はヤロブアムと同様偶像に頼り、罪の道を歩んでいきました。
南ユダ王国に大きな変革をもたらしたアサ王は、父アビヤムとは違って、神が王として立てたことをはっきり受け取り、主に仕えることが王として何よりも大切であることを理解していたことでしょう。
北王国バシャの侵攻前に、クシュ(エチオピア)人ゼラフがユダに攻め上ってきたことが、歴代誌には記されています(U歴代誌14:9〜15)。この時にアサ王は、とことん主に拠り頼みました。クシュ人(エチオピア)の大軍を目の前にして、自分たちがいかに小さく弱い存在であるかを認めつつも、神が共におられるなら力の弱い者も勝利を得るという信仰に立ち、神に祈り叫んだのです。その結果、アサ王率いる南ユダ王国は圧倒的勝利をおさめます。
しかしバシャが攻め上ってきたときには、必死でアラムと同盟を組むことに力を注いでいます。あるものはたいてベン・ハダデを味方につけることで、安心の保証を得ようとしています。このことに関して予見者ハナニが、「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした」と、クシュ人との戦いを例にしつつ指摘しています(U歴代誌16:7〜10)。この指摘に怒りを発したアサ王は、予見者ハナニに足かせをかけます。
またアサ王が年をとったとき、足の病気にかかったことがT列王記15:23で記されていますが、このことに関しても、歴代誌では「彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた」(U歴代誌16:12)と記されています。医者にかかってはいけないということではありません。問題は、「主を求めることをしないで」ただ医者だけに頼ったことです。恐らく全面的に医者頼みになり、医者が神に代わるかのようになってしまったのでしょう。エルサレムの偶像を徹底的に取り除いたアサ王でしたが、アラム王や医者など、見える人を偶像のように拠り頼む弱さがあったようです。
主を求め、主に拠り頼むことが薄れるほどに、見える人に依存していくなら、また人間さえも偶像になりうるのです。
アサ王は、このようなことが晩年にはありながらも、「アサの心は一生涯、主と全く一つになっていた」(T列王記15:14)と記されています。アサ王の弱さやどうしようもない部分も、神の憐れみに包まれています。
神は私たちが全面的に神により頼むことを求めておられます。生きていく上で、自分のできないことや困っていることを謙虚に認めて人に助けを求めることは大切なことです。でもそれさえも、信仰にあってすべきことで、人が神と等しいかのように求めるのではありません。具体的な助けやアドバイスを人から受けつつも、最終的な助けは神からくることを信じ、また神と相談しながら、どこまでも拠り所は神に置いていかないと、おかしな方向にいってしまいます。人の助けはどこまでも不完全です(詩篇60:11〜12)。完全な救いを人が与えることはできないし、100パーセント正しい人はいません。主はいつも私たちの嘆き、切なるうめきを聞いてくださる方です(詩篇6:9)。「あの手この手で防御する前に、まず私に求めなさい、あなたの嘆きを私は受け留める」と主なる神はおっしゃいます。あなたが主に拠り頼んだとき、主は聞いてくださるのです。主に求めていきましょう。