「不可能を祈る!」   
       T列王記17章

1節

 預言者エリヤは、紀元前9世紀に北イスラエル王国で活躍した人です。当時の北王国のアハブ王は、妻のイゼベルと共にバアルの神に仕え、アシェラ像も造り、偶像崇拝の罪によって神を侮り続けました。そして神はエリヤを通して、「ここ2、3年は露も雨も降らない」ことを宣言しました。バアルは肥沃の神で、雨を降らせて土地を豊かにすると言われていたので、バアルに仕え北王国中にバアル崇拝をさせたアハブの面目は丸つぶれでした。主なる神が唯一まことの神であることを、このことを通してイスラエルにはっきり知らされたのです。

 偶像崇拝は、十戒でも最初に厳しく禁じられています(出エジプト20:2〜6)。教会の中にも、目に見えない偶像があります。「自分の信仰」という、聖書とは異なった偶像、奉仕や働きが偶像になることもあります。人や人の言葉も偶像になりえます。自分の心を支配している偶像が何であるか、たえず御霊に気づかせていただく必要があります。


2〜7節

 アハブ王に対して、厳しい神の宣告を伝えたことで、エリヤの身に危険が迫っていたのかもしれません。神はエリヤに、「ケリテ川のほとりに身を隠せ」と命じます。これからの大きな戦いに備えて、エリヤはひとりの場所で神と交わり、神が必要をすべて満たしてくださるという信仰の訓練を受けるのです。

 ケリテ川では、「カラスがエリヤを養う」と神から言われました。エリヤが、神のことばよりも常識をとったなら、「カラスが毎食食事を運んでくるなんて考えられない」と言って従わなかったでしょう。プライドを優先させたなら、「カラス何かに養われるなんて、みっともないし汚いから嫌だ」と嫌悪したことでしょう。

 私たちも神様に対して、「こんなやり方で解決されるのは嫌です」とか、「こんな方法で信仰を成長させてくださるなら結構です」と思ってしまうかもしれません。しかし神に従うとは、自分の思った通りではなくても、従うことです。常識やプライドよりも、神のことばを優先させていくことです。

 エリヤは神のことばに従った結果、驚くべき神のみわざを体験することになるのです。神はカラスをも養ってくださる方です(ルカ12:24〜31)。またカラスさえも用いて、神のわざを行い人を助けることができる方なのです。神はご自身の民を助けるために、どんな小さな者をも用いることができるのです。 やがて雨が降らないために、ケリテ川の水も枯れてしまいます。


8〜9節

 ここで、神は再びエリヤに命じます。それは、シドンのツアレファテに住んで、ひとりのやもめに養われるようにという内容でした。当時やもめの社会的立場は非常に弱く、生活は大変でした。しかもこの時は、だれもが自分の食料を確保するのもままならない状況でした。そのような時に、しかもやもめに養われるという命令は、やはり常識とプライドを捨てなければ従えなかったでしょう。


10〜16節

 しかしエリヤは従っていきました。しかもツアレファテに行ってみると、そのやもめはたきぎを集め、最後の材料で息子と食事をして、死のうとしていました。この悲惨な状況を見たら、ふつうは彼女に食事を求めることはできないでしょう。しかしエリヤは、神が彼女を通して自分を養うとおっしゃったことばを信じて、「まず私のために、パン菓子を作り、そのあとであなたたち親子の分を作りなさい」と命じます。エリヤは、情さえもうしろにして、神に従っていきました。しかしその結果、エリヤだけでなく、やもめ親子をも神はしっかり養ってくださったのです。

 私たちは、ある時には人間の情をもうしろにし、自分の思いもうしろにして、神に従っていくように迫られるときがあります。でもその時には、神のことばに従っていく時に、神がすべて責任をもって大丈夫なようにしてくださるのです。 やもめも普通でしたら、「この状況を見てよくこんな図々しいことをこの預言者は言えるものだ」と腹を立てても仕方がないほどの状況でした。しかし彼女も、エリヤを通して神が語られたことを信じて従っていきました。エリヤにパン菓子を与えなくてもどのみち生活は限界にきていましたので、逆に神のことばにかけるしか望みがなかったとも言えるかもしれません。

 しかし、エリヤもやもめも、神のことばに従った結果、すばらしい神のみわざが起きてきます。なくなるはずのかめの粉もツボの油も、次に雨が降る日までなくなることはなかったのです。人間の計算では、「あと少しでなくなる」という状況でも、神の手にかかれば、その計算を超えて豊かにしてくださるのです。むしろ足りないという不足感がある方が、神が確かに与え養ってくださることがよくわかるのです(ピリピ4:19)。


17〜24節

 このように次々とすばらしい神のわざにあずかったエリヤですが、ここでとんでもないことが起きました。折角命拾いしたやもめの息子が重病にかかって死んでしまいます。感謝な出来事の後こそ大切な時です。さらに信仰に立つときです。息子を亡くしたやもめの切ない訴えを聞き、エリヤは息子の上に身を伏せて、「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください」と、人間的には不可能なことを率直に祈りました。 「死んだ人が生き返るなんてありえない」という常識をもうしろにして、エリヤは不可能を祈ったのです!

 すると神の側も、常識を破る事実をそこに起こしてくださったのです。 エリヤは預言者とはいえ、私たちと同じような限界と弱さをもった人間です(ヤコブ5:17〜18)。そのエリヤが、常識を超えて率直に祈った時に、常識を超えた神の力にあずかることができたのです。

 神は常識を超えたことをなさる方です。人間にできることしかできない神でしたら、信じていても空しいのです。人にはできないこともできる神だからこそ、私たちは大胆な祈りをすることができるのです。ついつい自分勝手に制限をつくって祈っていないでしょうか?

 主が命じるなら、カラスだって私たちを養うことができるのです。必要なら、人間の計算ではすぐになくなるはずのかめの粉も壺の油も、いつまでもなくならにようにしてくださる神です。死人をもよみがえらせる力ある方に、私たちはいつでも祈ることができるのです。「どうせ聞かれない」とか、「きっとこの程度のかたちで聞いてくださるに違いない」と分別せずに、不可能を大胆に祈っていきましょう。祈ってその通りにならなくても、祈り損ということはありません。どうせ全能の神に祈るなら、思いっきり不可能と思えることを祈っていきましょう。

 失望せず、あきらめず、しぶとく、不可能を祈りましょう。そしてもっとリアルに、生ける神の力を体験していきましょう。「そんな無理なことを願って…」などとケチなことを神ははおっしゃいません。神の全能を信じて、大胆に不可能と思えることさえも期待して祈ることを、神は喜んでくださいます。



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