「どっちつかずの信仰」   
       T列王記18:1〜24

1〜2節

 エリヤを通して主がアハブ王に伝え通りに、イスラエルには雨が降らなくなります。アハブ王はエリヤを探し回りますが、主がエリヤをかくまい養われたので、エリヤは見つかることなく安全に暮らすことができました(17章)。 しかし雨が降らなくなってから3年目に、主は「アハブに会いに行け」とエリヤにおっしゃいました。エリヤの本心としては、アハブ王に会いたくはなかったでしょう。しかし主が行けとおっしゃったので、エリヤは主の言葉を握って出ていきます。主は私たちにも、ある時は行きたくないところ、会いたくない人に会いに行くように促されます。はっきり主の導きと確信した時には、自分の思いは嫌でも、主の言葉を握って出ていくと、私たちの思いをはるかに超えた主のみわざが用意されているのです。主が「行きなさい」とおっしゃっているのに行かなかったら、折角の主のみわざを見ないことになり、それはもったいないことです。主はそこで私たちに何か見せたいもの、伝えたい大切な真理があるから、「行きなさい」とおっしゃるのです。ですから主に導かれた時には、自分の思いを後にして主の言葉を信じて出ていきましょう。


3〜4節

 同じころ、アハブ王は「王宮をつかさどる(宮内長官)オバデヤ」を呼び寄せました。オバデヤ(「主のしもべ」の意味)は、その名の通り、非常に主を恐れ敬っている人でした。その具体的な証として、アハブ王の妻イゼベルが強硬にバアル崇拝をイスラエルで推し進め、それを邪魔する者たちを容赦なく殺害していた時に、命がけで主の預言者100人を救い出して養ったのです。ヤロブアム王以降の北イスラエルにおける徹底した偶像政策により国が衰退の道を辿っていた時に、神はこのような主を恐れる人を、国の要職に備えておられたのです。信仰の灯が消えてしまいそうなところにも、神はちゃんとその火を灯し続ける人を残しておられます。そしてそのわずかな信仰の火から、またリバイバルを今日に至るまで起こしてこられたのです。


5〜6節

 アハブ王がオバデヤを呼び寄せた目的は、家畜のための牧草と水を探すためでした。アハブ王とオバデヤで分かれて、捜し歩くことになります。


7〜15節

 オバデヤが牧草地を探している途中で、預言者エリヤに出会います。エリヤは、オバデヤが家畜のために国を巡り歩いていることも、旅の日程も知りませんから、神が出会わせてくださったのでしょう。誰かとバッタリ会うことにも、主のご計画と導きがあるのです。エリヤは、アハブ王の側近でもあるオバデヤに、王と会えるように仲介を依頼します。オバデヤは、もし王を呼びに行っている間にエリヤがいなくなってしまったら、それこそ王から殺されてしまうかもしれないと恐れましたが、エリヤが必ず王に会うことを約束したので、王を呼びに行きました。


16〜18節

 オバデヤの仲介もあり、また探し続けていた相手でもあり、アハブ王自ら出向いてエリヤに会いに来ました。アハブはエリヤを見るなり、「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの」と言いました。アハブ王としては、今の国の干ばつと飢饉は、すべてエリヤが言った通りになったことなので、エリヤのせいだと思っていたのでしょう。しかしエリヤは、この一連の惨事は、アハブ王とその父オムリ、遡ってヤロブアムたちが、主の命令を捨てて見える偶像に頼った結果であることを伝えます。アハブ王は、自分の罪を認めず、エリヤに責任転嫁しました。偶像の神は、人の罪に目をつぶってくれるからある意味では楽なのですが、根本解決は与えません。逆に生ける神は、私たちの罪の問題に切り込んでこられます。しかしそれはただ責めるためではなく、根本解決をするためなのです。神は、一時的な問題解決ではなく、一番の問題の根っこである罪の問題を解決して、根底から私たちを治療してくださるのです。ですから、罪を認めていく時に、本当の赦しと癒しを体験することができるのです。


19〜20節

 アハブ王が、エリヤのこの提案をすぐに受け入れたのには、オバデヤの助言があったのかもしれません。雨が降らないことによる被害をこれ以上拡大させないためには、ひとまずエリヤの言うことを受け入れた方が得策だと。


21節

 エリヤが、バアルとアシェラの預言者たちを集める提案をした理由は、イスラエルの民たちの信仰をはっきりさせるためでした。民たちとしては、主を捨てた覚えはなかったかもしれません。ただ王の命令なので、バアルにもいけにえをささげていただけだと言うこともできたでしょう。しかし主なる神とバアルの両方を礼拝することは、主に仕えていないことであり、バアルによろめいている状態なのです。

 民たちも、「これでいいのか、どうか…」と最初は思いつつ、誰も「それは問題だ」と声を上げる人もなく、「まあいいか」と曖昧なまま流されてきたのです。いきなりそうなったのではなく、「まあいいか、今は仕方ない…」と思いながら、徐々によろめいていき、気がついたら、すっかり神から心が離れてしまっていたのです。 人はある意味で、曖昧な状態が好きで、あいまいさを居心地が良いと感じるところがあります。しかしエリヤはここでズバリ、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか」と迫ります。決してその居心地の良い場所に留まることを、神は許しておられないのです。民たちも、どこかに後ろめたさがあったのか、このエリヤの問いかけに一言も答えることができませんでした。


22〜24節

 見えるところはエリヤ一人と、バアルの預言者だけでも450人との戦いです。しかしこれは、実際には「神対人」の戦いなのです。ですから、人数の多少は関係ありませんでした。エリヤが生ける真の神にすがって戦うなら、それは全能の神が助けてくださるので一人でも大丈夫なのです。

 火をつけないままの雄牛とたきぎを用意し、それぞれが自分の信じている神の名を呼び、火を呼び降した神こそ本当の神であることを認めることになりました。 イスラエルの民たちは、これまでも神の奇しいみわざにたくさん預かってきたにもかかわらず、徐々に見える偶像に心奪われ、生ける神との関係が薄れていきました。どの神が本当の神かも段々あいまいにしながら、まわりに流されてどっちつかずな状態を快しとしてきたのです。そのあいまいさの居心地よさに馴染んでしまった民たちに、「どちらにつくのかはっきりしなさい!」と主は迫ります。

 エリヤは、民たちの信仰がはっきりするために、天より火を呼んで、信仰のリバイバルを迫ります。正に聖霊の火です。

 私たちはたえず、どっちつかずによろめきやすいものです。あいまいさを快しとして、霊の目がうとうとしてきて、いつしか眠ってしまい、気がついたらどんでもない事故を起こしてしまうのです。だからこそ、主はたえず「いつまでどっちつかずでいるのか、よろめいているのか?」と問われるのです。

 バアルの神が本当の神だと思うなら、思いっきりバアルに頼ってみればよいのです。そうすれば、そこに救いも望みもないことがはっきりわかるでしょう。いつまでも二股かけて、「神と偶像」、「神の国とこの世」と両方を主人としようとするから、かえって不安定になりよろめくのです(ヤコブ1:6〜8)。「二心のある人」は、「その歩む道のすべてに安定を欠いた人」なのです。

 主一本にすればよいのです。 実際には、「自分は二心のある人だ」と生涯思えることでしょう。でもそのことに主は気づかせてくださり、私たちのよろめいた状態を正してくださるのです。「どっちつかずをやめて、はっきりしなさい!」と今日主に言われたなら、今日また「主よ、あなたこそ唯一の神、私の主です!」と新しく告白していきましょう。



ページの先頭に戻る