「祈りによる闘い」
T列王記18:25〜40
25〜29節
エリヤは、たきぎの上にいけにえの雄牛を載せ、火をもって答える神を本当の神と認めることを民たちに提案しました。そしてまずバアルの預言者たちが、バアルの神に祈ります。彼らはたきぎに火がつくようにバアルに叫び、踊ったり大声を出したり、剣や槍で自分のからだを傷つけたりしながら、夕暮れのささげ物をささげる時間まで騒ぎ立てましたが、何も起きませんでした。
30節
そこでエリヤは、民たちを近くに寄せ、こわれていた主の祭壇を建て直します。イスラエルの民たちが、バアルだか主なる神だか分らなくなってどっちつかずによろめいている(21節)状態の根本原因が、主への祭壇を疎かにしていることにあったのです。神を礼拝することが後回しにされていたことから、あらゆる優先順位が狂ってきました。私たちの直面するあらゆる問題の根本が、ここにあります。霊的な問題が、生活のあらゆることに影響を与えていくのです。まずこわれた祭壇を建て直し、神礼拝の回復が、イスラエルの霊的回復の始まりであることを、エリヤは民たちに示したのです。
31〜35節
バラバラになってしまったイスラエルの12部族の一致と回復を願って、エリヤは12の石を取りました。そして祭壇のまわりに溝を掘り、たきぎの上に主へのささげものとしての雄牛を載せ、4つのかめいっぱいに満たされた水をいけにえの上に3度注ぎ、水浸しにしました。
36〜37節
今度はエリヤの番です。エリヤは、主なる神が民たちの真の神であり、神のみことばによ
ってエリヤがすべての事を行ったことが明らかになるよう祈ります。「主よ、私に答えてください」と繰り返し祈ります。切実な祈りであり、民たちの心を主に立ち返らせるための戦いの祈りです。偶像を慕う民たちの心を翻してくださるのも、主なのです。私たちも、祈りによって格闘する時があるのです。人々の心を偶像や見えるものに向かわせ、とらわれさせるサタンの働きを打ち壊す霊的戦いを、祈りを通してするのです。中断せず継続して祈り続けるのです。祈りの手を緩めると、すぐにサタンは手を出してきます。
38節
神はこの切実なエリヤの祈りに答え、天より火を降らせ、全焼のいけにえとたきぎ石とちりとを焼きつくし、溝の水もなめ尽くしました。水浸しで、普通に火をつけてもとても燃えない状況でしたが、主からの火はすべてを焼き尽くしたのです。
39〜40節
この大いなる出来事を近くで見ていた民たちは、ひれ伏して「主こそ神です」と言いました。どっちつかずによろめていた民たちは、このエリヤとバアルの預言者たちとの戦いを通して、イスラエルの神が生きておられる方であることを目の当たりにしてひれ伏したのです。
そして悔い改めて立ち返ることの具体的な行動として、彼らを偶像に向かわせてきたバアルの預言者たちを無き者にします。
「主こそ神です」と告白しながら、なおバアルの預言者も尊んでいるなら、真に神に立ち返ったとは言えないのです。はっきりと偶像と決別するための行動をとりました。偶像崇拝を悔い改め、神に立ち返るために、過去をしっかり清算したのです。
私たちもこの時のエリヤのように、とことん祈りによって天から火を呼ぶような祈りの闘いをする時があるのです。「どうせ祈っても聞かれないだろう…いつか聞かれればいい」などと悠長なことを言っていられない事態が起きてきます。「今主からの火が降らなければ、民たちの魂は敵の手に落ちてしまうかもしれない。どうしても今聖霊の火を降らせてください」という切実な祈りをささげるのです。中途半端なところで祈りを中断すると、また奪回されてしまうかもしれません。完全にどっちつかずによろめいた状態から、主なる神に立ち返るまで祈りによって霊的戦いを続けていくのです。
今心を翻して神に立ちかえってほしい人は誰ですか?どこに聖霊の火を降らせてほしいですか?主は聖霊の火によって、人々の罪を飲み乾してくださいます。キリストの十字架の血は、すべての罪を飲み乾すことができるのです。聖霊の火を呼び求めましょう。切に主に求め、主に向かってたたき続けましょう(マタイ7:7)。そして祈りの中で示されたことは、具体的に行動していきましょう。主が人々の心を翻し、聖霊の火によって罪を焼き尽くしてくださいます。