「完全勝利まで続ける祈り」   
       T列王記18:41〜46

41節

 エリヤとバアルの預言者との対決で、イスラエルの民たちは主なる神が真の神であることを認め、ひれ伏して「主こそ神です」と告白します(39節)。
バアル神と主なる神と、どっちつかずによろめいているような二心の信仰から、主なる神だけに従う信仰を回復します。

 そしてエリヤは意外にも、徹底した偶像政策を進めて神を侮ったアハブ王に、「上って行って飲み食いしなさい」と命じます。
エリヤとしては、アハブ王が神の力を知って、真の神に立ち返ることをなお願っていたのかもしれません。

 そして、アハブ王がこの時一番求めていたのは、雨が降ることでした。3年雨が降らなかったことは、国政にも大きな影響を与えていました。
エリヤを通して語られた主の言葉によって雨が降らなくなり(17:1)、再び主の言葉によって(18:1)大雨が降ることを、エリヤはアハブ王に宣言します。

 天候さえも支配しておられる偉大な神の御前に、雨が降らないことで右往左往する小さな存在であることを認めて、アハブ王が神にひれ伏すことを願って、
エリヤは「激しい大雨の音がするから」と伝えます。
 エリヤ自身も、まだ大雨の兆候すら見ていませんが、信仰によって神の言葉は必ず成ると信じて(へブル11:1)、王に宣言しているのです。


42節

 アハブ王は飲み食いするためにキション川から上り、エリヤは神に祈るためにカルメル山の恐らく祭壇のある所に上ります。
そして、「地にひざまずいて」切実な願いと祈りを神にささげます。


43節

 エリヤは、共にいた若者に海の方角(雨雲が起こる西側の地中海の方)を見に行かせ、自分は祭壇のところでひたすら祈り続けました。
最初は何の兆候もありませんが、エリヤは7たび繰り返し若者を見に行かせます。神が事を起こしてくださる時をじっと待ちながら、エリヤは祈り続けます。
このような祈りの期間が、とても大切なのです。私たちにも、忍耐をもって祈り続ける時期があります。その時に信仰が養われていくのです。
少し祈って何も起きないから止めてしまうのではなく、事が起きるまで、ひたすら神の約束とみことばをしっかり握って、祈り続けていくのです。


44節

 7度目に若者が海の方を見に行った時に、ようやく「人の手のひらほどの小さな雲」が海から上ってくるのが見えました。
エリヤは、その報告を聞いてもさらに祈り続けます。祈りは、少し聞かれたところで中断してはいけません。少しだけ好転したからと言って、祈りを止めてはいけないのです。
中途半端なところで祈りの手を下ろさず、ドシャブリの大雨が降るまで祈り続けるのです。

 出エジプトしたイスラエルが、アマレク人と戦った時にも、モーセが祈りの手を挙げている時はイスラエルが優勢になり、安心してしまって手を下ろすとアマレクが優勢になりました(出エジプト17:8〜13)。
そのため、モーセの手を支える人も必要になりました。戦いの最前線では、若いヨシュアが戦い、モーセたちは祈りによってアマレクと戦ったのです。

 エリヤは、小さな雲が見えてきたことを聞いて、なお祈り続けつつも、主が約束された言葉を信じて、アハブ王に「大雨に閉じこめられないうちに下って行きなさい」と若者に伝えさせます。


45節

そして主の言葉の通り、エリヤがひざまずいて祈り続けるうちに、激しい大雨が降ります。アハブ王は、宮殿のあるイズレエルに帰っていきます。


46節

 主の手がエリヤに下り、エリヤはアハブ王の前を走ってイズレエルの入り口まで先導していくような形になります。
そこでエリヤは、アハブ王が妻のイゼベルに、バアルの預言者の完全な敗北と、イスラエルの神による完全な勝利を伝えるところを見届けることになります。
 長く続いた干ばつは、激しい大雨の襲来により終わります。アハブ王は、自分が頼っていた偶像の空しさを知り、主なる神の生ける力を目の当たりにして、宮殿に帰っていくことになります。

 エリヤが主の約束を信じ、雨など降る兆候もない中でも祈り続ける中で、主の言葉は成就しました。しかも、降ったか降らないか分らないような小雨ではなく、激しい大雨が降ったのです。

 私たちも、忍耐強い祈りによって、主の勝利を見せていただけるのです。その時に、少し兆候が見えたところで祈りを止めてはいけません。
完全な勝利を見せていただくまで、祈りの手をおろしてはいけないのです。誰かに祈りの手を支えとりなしていただきながらでも、完全勝利まで祈り続けましょう。
「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい」(コロサイ4:2)


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