「わたしこそ主であることを知ろう」   
       T列王記19:19〜20:21


19:19〜21節

 逃亡中の荒野で神から新しい使命を受けたエリヤは、後継者のエリシャに引き継ぐ意味で、外套をエリシャに掛けます。家族に別れを告げに行くことを願い求めたエリシャに、どうすべきかは自分と神との関係で決めるようエリヤは勧めます。エリシャは家族の元に一度行き、別れを告げてエリヤについて行きます。 イエス様の召命に答える時よりも、エリヤの対応は緩やかに感じます(ルカ9:61〜62)。イエス様が命じておられる「神の国の到来を宣言する福音宣教」には、いかなる事柄をさしおいても優先されるべき緊急性があるのです。 


20:1節

 アッシリヤの王がアラムに攻撃をしかけてきたため、アラムはイスラエルを反アッシリヤ同盟に加わらせようとして、首都サマリヤを包囲します。イスラエルもオムリ王以降強力になっていたため、アラム王は32軍団でイスラエルを攻めてきます。アラムの急な侵攻に、イスラエルは十分備える間がありませんでした。


2〜8節

 アラム王ベン・ハダデの最初の要求よりも、2回目の要求はイスラエル全体に関わる大きな内容になってきたので、アハブ王は国の長老たちに相談し、長老たちはその要求を承諾しないように王に求めます。このような危急の時に、イスラエルのアハブ王はバアルに頼ろうとはしませんでした。カルメル山での敗北によりバアル神に力がないことを悟ってしまったからか、妻のイゼベルを通しての信仰だったのか、政治的にバアルを利用していただけなのか、このような危機的状況の中でも、バアル神を頼るべき対象と意識することすらなかったのです。


9〜12節

 アハブ王がベン・ハダデの要求を拒否すると、ベン・ハダデは、「サマリヤが破壊されて塵になっても、アラムの兵士一人ひとりの手にその塵が満たないほどに沢山の兵士を送り込む」と豪語し、それに対してアハブ王は、「これから戦いをしようとする者は、結果が分らないのに威張るべきではない」という意味の当時のことわざを返します。これを聞いて、怒ったベン・ハダデは、サマリヤ攻撃の準備を整えます。


13〜15節

 その頃、ひとりの預言者(誰かは不明)がアハブ王のもとに来て、アラムの大軍を主がアハブ王の手に引き渡されることを告げました。それは、アハブ王が「わたしこそ主であることを知る」ためだと、主は言われたのです。アハブ王の勝利を、神は約束してくださったのです。あれほど神に逆らい、イスラエルをバアル崇拝に向かわせた背信の王に対して、神はなおも恵みの機会を備えておられるのです。神が願っておられるのは、戦いの勝利よりも、アハブ王が神こそ主であることを知り、神との親しい関係をもつようになることなのです。神は、これまでのアハブ王の背信を不問に付されたわけではありません。でもアハブが自分の罪を悔い改めて神のあわれみにすがるよう、なお神はあわれみの御手をさしのべておられるのです。一方アハブ王は、アラムのおびただしい大軍を見て、勝つ見込みもなく戦う気力もないような返事をしています。


16〜21節

 預言者を通しての主のことばにより、イスラエル軍は真昼ごろ出陣します。すでにアラム側は、勝利を確信して、前祝いをしていました。イスラエルに神の介入があったことなど知らずに、情勢だけで判断して勝利の祝杯を交わしていたのです。  ベン・ハダデの大言壮語にも関わらず、アラムは完全に敗北します。イスラエルは、主のあわれみによって逆転勝利を収めることになるのです。

 これまで聖書を読み進めてきますと、あれだけ神に背いてきたアハブ王を、なぜ神はなおも助けられるのかと思われるかもしれません。アラム軍の攻撃によって、アハブ王も痛い目にあって当然だと、人の目には思える状況です。ここに、私たちの人間的考えでは測り知れない、神のご計画とあわれみがあることを知らされるのです。本来なら滅ぼされても当然と思われる者を、あえて寛容をもって忍耐してくださる神なのです(ローマ9:22〜23)。そのあわれみを受けた者が、自分の真の罪の姿を知った時には、神のあわれみの大きさに感謝をささげずにはいられないことでしょう。また神は滅ぼすことを望んでおられるのではなく、すべての人が悔い改めて神に立ち返ることを望んでおられるのです(Uペテロ3:9)。 神が選ばれたイスラエルの王として立てられたアハブ王を、神は救いたいと願われ、なおも悔い改めの機会を与えておられるのです。

 私たちも、そのような神のあわれみがあってこそ、今生かされ、神との親しい関係に導き入れられるのです。そのためにこそ、神は独り子イエス・キリストを世に送ってくださったのです。神の最大のあわれみが、キリストによって示されています。神が求めておられることは、滅ぼすことではなく、すべての人に対して、「あなたは、わたしこそ主であることを知ろう」ということなのです。この神の寛容により救われたことを感謝しつつ、またすべての人が「わたしこそ主である」と言われる神を知ることができるように、とりなし祈りましょう。






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