「ダビデからソロモンへの遺言」   T列王記2:1〜12


1〜4節

いよいよダビデの死期が近づき、ダビデは次期王となるソロモンに、王として大切なことを伝えます。
人生最後に遺す言葉にはとても重みがあります。
ダビデが最も大切なこととしてソロモンに命じたことは、「主の前を歩みなさい」ということでした。
ダビデ自身も、完璧に主の戒めを守り、いつもしっかり主の道を歩んでいたわけではありませんでした。
人としての道をはずすこともあったし、家庭を十分治めることもできたとはいえなかったでしょう。
でも主からはずれている自分に気づくたびに、また悔い改めて主に立ち返っていくダビデでした。
主の道からはずれたときのみじめな自分と、主に立ち返った時に与えられる神の限りないあわれみと平安を経験する中で、主の道を歩むことが人生の中で何よりも大切なことであるとダビデ自身も思われたのでしょう。
旧約聖書で王たちについて記述されている多くは、「〜王は主の前を歩んだ」か「〜王は主の前を歩まなかった」のどちらかです。
主の前を歩んだか否かだけが、問われているのです。
王としても、一人の人間としても、主の前を歩むことこそ幸いな道なのです。
主の戒めを大切にしていくなら、いよいよ主の戒めを守れない自分の姿に直面します。
人との比較で考える時には、そこそこの生き方をしていれば、「それほど自分も悪い人間ではない」と満足するかもしれません。
しかし神の基準を大切にして歩む時には、どこまでも自分が不完全であることを知らされていきます。
完全な主の教えの前に、私たちはどこまでも不完全な生き方しかできないのです。
主の戒めを大切に思えば思うほど、不完全にしか従えない自分に悩みます。
だからこそ、キリストの十字架によって罪が完全にきよめられるという福音がありがたいのです。


5〜10節

ダビデは、王として何よりも大切なことが「主の前を歩むこと」であることをまずソロモンに伝えた上で、具体的に気になっていることやダビデの時代には手つかずになっていたことを引き継ぎます。
まず長年ダビデの軍団長を務め、ダビデの側近でもあったヨアブについてです。
ヨアブは、2人の将軍アブネルとアマサを、王であるダビデの意に反して殺害しました(5節)。
また謀反を起こしたダビデの息子アブシャロムをも、生け捕りにするように王から命じられたにもかかわらず、殺してしまいます。
そしてアドニヤがダビデ王を無視して王になろうと企むと、真っ先に手を組みました。ヨアブの行動に対して、ダビデは問題を感じながらも、どうすることもできずにここまできました。
しかしそれを放置しておくことは、決して国のためにもよくないと感じていたようです。
そのことを情報としてソロモンに伝え、あとはソロモンの手に委ねました。
バルジライ(7節)は、ダビデがアブシャロムに追われて荒野で苦しんでいた時に助けてくれた人です(Uサムエル17:27〜29)。
身の危険も顧みず、飢え渇いていたダビデたち一行に必要なものを差し入れてくれたのです。
普段それほど関わりがあったわけではないバルジライが、遠くから近くに来てくれたのです。
バルジライにとって、この行為は危険こそあれ、何のメリットもないのです。
損得勘定なしに、ただ神の視点にたって苦境にあるダビデの近くにきてくれたバルジライの子孫たちに、恩恵を与えるようにとダビデはソロモンに命じます。
親のした行為が、その子供にまで恩恵を与えていくのです。
シムイ(8〜9節)は、ダビデがアブシャロムに追われたときに、激しくダビデを呪った人です(Uサムエル16:5〜14)。
精神的にも肉体的にも疲れているダビデたちのあとを、呪ったり石を投げながらついていき、更にダビデたちを疲弊させたのです。
しかしシムイは、ダビデが再び王宮に戻った時には、謝罪しにきました(Uサムエル19:16〜23)。
ダビデは、その場でシムイに危害を加えないと約束しました。
しかしダビデの中では、このことに対しても曖昧なままにしてはいけないという思いが常にあったのでしょう。
またシムイの心にある苦根が、いずれ問題を引き起こすという予感があったのかもしれません。
シムイとの約束もあり、ダビデの時代にはこのこともどうすることもできませんでしたが、ダビデはソロモンにシムイのことも気になっていることを伝え委ねています。


10〜12節

こうして王として伝えるべきことは次期王ソロモンに引き継ぎ、ダビデは死んで墓に葬られました。
そしてすでに王と宣告されていたソロモン政権が、確立していきます。
ソロモンは、ダビデから大切な信仰の歩みを引き継がれますが、実際に国を治めていく上では、とても自分の力ではできないことを認め、「善悪を判断して民をさばくために聞き分ける心を与えてください」と神に願い求めます(3:7〜9)。
神は、ソロモンのその願いを聞き入れ、ソロモンに民を治めるための知恵を与えてくださいます。
このソロモンに与えられた知恵も、ソロモンが主の前を歩んでいく時に与えられていく知恵でした。
ソロモンも、主の前からはずれてしまえば、おかしな歩みになっていったことでしょう。
ダビデは、たくさんの失敗をしましたが、人生の終わりに、「結局主の前を歩み、主に従っていくことが人生で一番大切なこと」と受け取っていきました。
神に造られた人間にとって、最も大切なことは心を尽くして主の前を歩むことであり、それさえはっきりしていれば、大丈夫だと思い、ソロモンにもそのことを最初に引き継いでいます。
その通り、主の前を歩むソロモンに、生きる知恵と王としてのあらゆる知恵が与えられていきました。
終わりの時に、身近な者たちに何をどのように伝えていくかが問われます。
それ以前に、自分自身が何を大切にして生きているかがハッキリしていないと、余計なことばかり伝えて肝心なことを伝えそびれてしまうかもしれません。
私たちが生きてきた道、そして大切にしてきたことだけが、最後に遺すことができます。
「主の前を歩むこと」こそ、他の何よりも大切なこととして生きているでしょうか?



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