「神に従うとは」 T列王記20:22〜43
アラムの王ベン・ハダデが、イスラエルの首都サマリヤを包囲し、無条件降伏を求めてきます。神は、イスラエルが絶体絶命の危機の中で、アハブ王に、「アラムのおびただしい大軍をあなたの手に引き渡す」と、預言者を通して約束します。それは、アハブ王が「わたし(神)こそ主であることを知る」ためです。バアル神を崇拝し、神に逆らい続けたアハブに、神はなおあわれみの手をさしのべてくださったのです。見えるところは完全に不利な状況にありながら、神の力により、イスラエルはアラムの大軍に勝利します。
22〜25節
預言者を通して、神は再びアラムがイスラエルを攻撃してくることを予告します。アラム王の家来たちは、「イスラエルの神は山の神なので、平地で戦えば勝てる」と提案します。神が複数いて、それぞれの得意分野があるという考えです。日本でも、「学問の神」「交通安全の神」「商売繁盛の神」など、課題によって違う神を求める傾向があります。
しかし、天地万物を造られた神は、唯一の神です。不得意分野はなく、どのようなテーマに関しても、全能の力をもって臨まれます。いつでもどこでも、呼べば答えてくださる神です。ですから、「このテーマは神に祈って、このテーマは自分で解決しよう」などと分別しなくてよいのです。我らの神は、山の神でも平野の神でもなく、この世界、宇宙、どこにでもおられる遍在の神であり、全知全能の神です。
26〜28節
翌年、神が言われた通りに、アラムは攻め上ってきます。アフェクで、イスラエルとアラムは対面しますが、「アラムはその地に満ちて」いました。戦う兵士の数も、武器も、あらゆる面でイスラエルの方が乏しいことが一目瞭然でした。しかし、神の人を通して、「わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す」と主は言われます。見える状況では、とても勝ち目のない戦いですが、神がその大軍を渡して勝利をもたらすという約束です。それによって、アハブ王が「わたし(神)こそ主であることを知る」ためです。
私たちが弱い状況にある時ほど、主が戦って勝利をもたらしてくださるのです。勝ち目はない、とても乗り越えられないと思う状況で、神は勝利をもたらしてくださり、主の御力を現してくださいます。兵力や武器の多さも、この偉大な神の前には歯が立たないのです(詩篇33:16〜18)。
29〜34節
神からの勝利の約束をいただき、その言葉を心に留めながらイスラエルは戦います。神が介入してくださり、イスラエルはアラムを打ち破り、アラムの王は追い詰められます。アハブ王は、アラムの王ベン・ハダデの命乞いに対して、政治的な目的もあり、あさっりと受け入れます。あわれみ深い王を演じますが、このことが神のみこころを損なうことになります。
35〜43節
預言者たちの不可解な出来事は、自分の判断やこの世の常識以上に、神の命令に従うことが優先するということを教えています。預言者は、アハブ王が聖絶すべきであったアラムの王を自分の判断で助けたことが、神のみこころを損なったと伝えました。
ここでは、神の言葉に従うことの大切さ、厳しさが示されています。神の民は、自分の判断、常識、情よりも、神の言葉に従うことが求められています。常に神の言葉を聞いて心に留めていないと、すぐに人の言葉や情報に振り回されてしまいます。
アハブ王が神に散々逆らいながら、なおも神はあわれみの手を差し伸べてくださり、アラムの大軍に勝利をもたらしてくださいました。しかし当のアハブは、神のみこころを理解しようとはせず、そのあわれみに感謝することもなく、どこまでも自分の判断を優先して自分の家(バアル神殿)に帰っていきます。
神の言葉に従うか否かが、絶えず問われています。人間の情や自分の思いを後ろにして、泣きながらでも神の言葉に従うことを選び取っていくべき時があるのです。
私たちは、神のみこころすら、すぐにわからなくなるものです。「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」(Tコリント2:11b)
神のみこころを知るためにも、いよいよ御霊を求めていきましょう。御霊に満たされ続けていきましょう。御霊ご自身が、弱い私たちを助け、神のみこころを理解し、従う力も与えてくださいます。