「主によって、ありえないこと」 T列王記21:1〜29
1〜4節
アラムとの戦いが終わった後、イスラエルのアハブ王は、イズレエルの町のナボテが所有するぶどう畑を譲ってほしいと依頼します。住まいの近くで、野菜畑として使うためでした(サマリヤだけでなく、イズレエルにも王宮があったようです)。しかしナボテの答えは、「主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは」(3節)でした。「主によって」というのは、そのように主が定められているということです(民数記36:7)。先祖からのゆずりの地を売り渡してはならないという、主の命令があるからです。ナボテは、個人的理由で王の求めを断ったわけではなく、主のことばに従ったのです。ナボテの答えには、神の律法を守ろうとする彼の誠実さとともに、イスラエルの王が律法を尊重しないことへの不満も感じられます。アハブ王の要求は、権力によってナボテに罪を犯させるようなものだったのです。
アハブは、ナボテの答えを聞いて不機嫌になり、激しく怒りながら家に帰ります。「主によって」と言われたことに対しては、イスラエルの王としては完全に否定することができませんでした。イスラエル人としての最低限の良心をもっていたのでしょう。しかし、自分の要求が通らなかったことで、ふてくされてしまいます。
5〜16節
アハブの妻イゼベルは、熱心なバアル教信者でした。バアル信仰をイスラエルに広めるためには、主の預言者をも殺す冷酷さを持っていましたが、不機嫌になっている夫を気遣う優しさもありました。しかし、王である夫の要求を取り下げられたという王の妻としてのプライドもあったかもしれません。
イゼベルは、一国の王がそのようなことで落ち込んでいる様子をたしなめつつナボテのぶどう畑をアハブに与えると約束します。
イゼベルは、ナボテの町の長老たちとおもだった人々に手紙を書きます。その内容は、よこしまな二人の者たちに、「ナボテが神と王を呪った」と偽りの証言をさせ、その罰としてナボテを石打にするように、という命令でした。神を冒涜した者に対して、石打刑が律法で定められていました(レビ24:16)。イゼベルは、自分の都合の良いように律法を用い、ナボテが「主によってありえません」と言った律法は無視しています。イゼベルは、もともと主のことばに従う気持ちを持っていませんから、「偽証してはならない」(出エジプト20:16)という戒めも無視しています。ナボテの町の長老やおもだった人々も、バアル神礼拝の続くイスラエルの霊的曖昧さの中で良心を失っていたのか、簡単にイゼベルの脅しに乗ってしまいます。ナボテは、イゼベルの策略通り殺され、それを聞いたアハブ王は、ナボテのぶどう畑を取り上げに行きます。
17〜24節
アハブとイゼベルのした殺人と所有地強奪に対して、預言者エリヤが神の厳しい審判を宣言しに来ます。アハブに対する裁き(19節)は、その通りになります(22:38)。イゼベルの悲惨な死についても、U列王記9:10、30〜37で、事実となります。
25〜26節
イスラエル人ではないイゼベルは、バアル礼拝をイスラエルに広め、また夫アハブが偶像に向かうようにそそのかしました。神の裁きは、アハブをそそのかした妻イゼベルにくだり、またそれに従った夫アハブの上にもくだります。アハブの悪の中心は、「偶像につき従った」ことです。
27〜28節
アハブは、エリヤを通して語られた神の審判を聞き、悔い改めの行為をします。これが形だけなのか、心からの悔い改めかはわかりませんが、主はご存知です。それでも、主はアハブをあわれんでくださり、アハブへの裁きは先延ばしになります。
この21章は、イスラエルの王でありながら主のことばよりも自分の欲求を満たすことを優先させるアハブと、「主によって、ありえないことです」と、神のことばに忠実であろうとするナボテが対照的に記されています。結局みことばに従ったナボテが殺されてしまいます。旧約の預言者たちも、キリストも、使徒たちも、みことばに従って殺されていきました。みことばに従うことが、必ずしも良い暮らし向きや、見える幸福につながるわけではないのです。むしろ、みことばに従うとは、自分に死ぬことです。自分を生かしたまま、みことばに従うことはできません。
「主によって、ありえないこと」をしないで済んだナボテにとっては、幸福な人生であったのかもしれません。神のことばに従うことで得られる平安・希望は、計り知れないものです。それは、地上の目に見える幸福には必ずしも直結していません。でも、自分の思いを成し遂げるためにみことばを無視することで、神との関係が切れてしまうよりは、遙かに幸せなのです。一見不幸と思われるような歩みであっても、神との関係が平和であり、神の臨在に満たされながら歩めるなら、最終的には幸福な人生であったと言えるのです。
私たちは、ナボテのように「主によって、私には、ありえないことです」と言って神のことばを取り自分に死んでいくか、アハブ王のようにどこまでも自分の欲を成し遂げるために神のみこころを後ろにしていくか、主の前に常に問われています。
ナボテも、王の要求を拒否したら、殺されるかもしれないという予想はしていたでしょう。また、もっと良いぶどう畑を与えられ、相当の報酬も約束されていましたから(2節)、王の要求を受け入れた方が得でもあったでしょう。しかしナボテは、主のことばに従うために、あえて王の申し出を断ったのです。「どちらの方が得か、どちらの方がより自分の思いを満たすか…」という基準ではなく、「どちらが主のことばに忠実であるか」が、神の民の決定基準です。
自分の思いやお得感ではなく、「主が正しい、また良いと見られることをしなさい」(申命記6:16〜18)と命じられています。いざ選択を迫られる時に、「主によって、私には、ありえないことです」と、きっぱり宣言できるように、日頃から主のことばを心に留めておきましょう。また、肝心な時に主のことばを選び取ることができるように、さらに主の臨在に満たされ、御霊に満たされていきましょう。