「神の知恵」 T列王記3章
1〜3節
ソロモンは、外交関係を良くするために、エジプト王パロと契約を結び、パロの娘をめとります。
当時外国の女性と結婚することは、その国の偶像崇拝の影響を強く受けることもあり、基本的には禁じられていましたが、ここではその事実だけが記されています。
「高き所」(バーモース)は、古くから礼拝の場所を示すことばです(山や小高い丘が用いられたことが由来)。
その起源はとしては、カナン人の宗教の影響が考えられています。
申命記12:1〜5では、異邦の民による礼拝所は破壊し、神が「ご自分の住まいとして御名を置く」場所へ行くことが求められています。
またいずれヨシュア王の時代に、高き所は取り除かれることが宗教改革の重要ポイントとなります(U列王記23:8〜)。
それでもソロモンの時代には、「高き所」でいけにえをささげて礼拝することが一般的でした。
ソロモン自身の中に、異教に対する曖昧な部分があったかもしれませんが、それでも「ソロモンは主を愛し」ていました。
人間的弱さや課題がソロモンにも見え隠れしますが、それでも主との特別な関係にあったことがうかがわれます。
4〜5節
「高き所」として最重要地であったギブオンで、主は夢のうちにソロモンに現れます。
夢が神の啓示の方法の一つとして用いられている例は、聖書の中でも度々出てきます(創世記28:12他)。
しかし逆に夢を安易に啓示ととることへの警告も与えられています(申命記13:1〜5、民数記12:6〜8)。
6〜9節
ソロモンは、その夢の中で主に対して、おびただしいイスラエルの民を目の前にして、自分は「小さい子ども」のような存在であることを認めています。
だからこそ、「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心」を与えてくださいと求めています。
9節の「おびただしい」は、ヘブル語言語では「重い」という言葉が使われています。
人数に限らず、人に対して責任をもつことは重たいことです。
だからこそ、神の知恵をいただかなければ、とても続けられないのです。
同時に、どれほど重い責任が課せられていても、私たちの重荷を日々共に担ってくださる主がおられることは、ありがたいことです(詩篇68:19)。
10〜15節
ソロモンの願いは、主の御心にかないました。
主はソロモンの願いどおりに、知恵の心と判断する心とを与えてくださったのです。
自分のための長寿や富などでなく、民たちのためにこのような知恵を求めたことを神は喜ばれ、ソロモンが願わなかった富や誉も与えてくださったのです。
16〜28節
神がソロモンに知恵を与えてくださったことを示す出来事が早速起きてきました。
その民として最初に登場するのが、2人の遊女です。
じ家に住む2人の遊女が、3日違いで子どもを産みました。
しかし1人の方が夜寝ている間に自分の子の上に伏してしまい、その子は死んでしまいます。
その母親は、死んだ子を、もう1人の遊女の子と交換してしまいます。
2人とも、生きている子を自分の子どもと主張して争いながら、ソロモンの元に連れて来られました。
ソロモンは、「剣を持ってきて生きている子どもを2つに断ち切りなさい」と命じます。
その結果、生きている子の母親は、自分の子を思って胸が熱くなり、「その子をあの女にあげてください」と言います。
もう1人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言いました。
恐らく同じ家に住み、年齢も近く同じような状況に置かれていただけに、この女性の中に以前からもう1人の女性に対する妬みや複雑な感情が処理されないまま積もってきていたのでしょう。
この2人の言葉を聞いて、王は確信をもって生きている子どもの母親を言い当てることができました。
イスラエル人はみな、これが神の知恵によることを認めています。
それは、ソロモンが日頃から神を畏れ敬っている態度を見て知っていたからでしょう。
神は、私たちが神の知恵を求めて生きていくことを喜んでくださいます。
キリストのうちには、知恵と知識との宝がすべて隠されています(コロサイ2:3)。
この方に知恵を求めることほど確かなことはないのです。
毎日「このことはどうしたらよいですか、教えてください!」と神に祈ることができるし、それが神の御心なのです。
神に求めていく時に、思いもよらない知恵を与えてくださったり、自分の力だけでは行き詰っていたようなことを神の方で動かしてくださったりするのです。
ただし注意しなければならないのは、神の知恵を受け取る時には、自分の思い込みを一旦捨てなければいけないということです。
神の知恵と私の思いは、異なることの方が多いのです(イザヤ55:8〜9)。
折角神の知恵を示してくださっているのに、自分の思いが強すぎて、それを受け入れられなかったり、聞こうともしないことがあるのです。
神の知恵をいただきたいなら、自分の思いを捨てて空っぽになって受けていくことです。
私の思い主張を取り下げて、主の思い主の知恵を受けていきましょう。