「聖別した物」 T列王記7章
ソロモンは、7年かけて神殿を建て(6:38)、13年かけて宮殿を建てました(7:1)。
神殿建設も、宮殿建設も、主の大切な働きとしてあたりました。
神殿建設にあたり、ここから3つの大切なことを心に留めましょう。
@ 神は異邦人をも用いて主のご計画を遂行されます(13〜14節)
神殿建設にあたって、ツロ人の青銅細工師ヒラム(王と同名)が用いられています(13節)。
彼は「青銅の細工全般に関する知恵と英知と知識に満ちた人」(14節)でした。
神はイスラエルの神殿建設のために、異邦人の知恵と英知に満ちたヒラムを遣わしてくださったのです。
建物に限らず、福音宣教においても、クリスチャンではない方々が用いられることがしばしばあります。
信じてはいないけど、教会のことをアピールしたり、教師が授業でキリスト教文化、歴史、小説などを教えたことで、聖書を読んだり教会に行く人もいます。
そういう意味では、神はどのような人をもご自身の計画を実現するために、どのような人をもお用いになることができるのです。
A 何を柱とするかが大切です(21節)
15節〜22節には、神殿の柱についての記述があります。
特に本堂玄関広間前に立てられた2本の柱には、名前がつけられました。
右側がヤキン(彼は設立する)、左がボアズ(力をもって)です。
この神殿を神が建てられ、神の力によって支えられていることを、この柱(の名前)を見るたびに思い起こしたことでしょう。
神殿に限らず、この立派な柱を見るたびに、国全体も神が支え守られていることを思い、神への感謝をささげたことでしょう。
自分たちの家を、また教会を支えておられるのは主なる神であることを忘れてはいけないのです。
確かに、神は人を用いても支えていてくださるので、一人一人は尊い存在ですが、あらゆる人をも用いて、大黒柱として支えておられるのは、神ご自身です。
神の支えと守りがなければ、決して教会は立ち行かないのです。
そのことを常に思い起こし、神に感謝をささげましょう。
B 主にささげたものは聖別して用いられます(51節)
主の宮の工事が完成した時、ソロモンは父ダビデが聖別した物を宝物倉に納めました。
聖別したものとは、神にささげた物です。
ダビデは、直接神殿建設に関わることを許されませんでしたが、それに備えて金銀、器具類などをささげることで、神殿建設に貢献しました。
ダビデがそれらを握り締めず、神にささげたことで、ソロモンの時代に尊く用いられたのです。
神にささげていく時に、ささげたものが尊く主の手によって用いられていきます。
神は、私たちに自分という存在をささげるように求めておられます(ローマ12:1)。
それこそ霊的な礼拝なのです。
自分も、また自分の持ち物や家族など、「これは私のもの」と握り締めているから、自分や持ち物のことにとらわれ悩むのです。
「すべてあなたのものです」と、主に明け渡していくときに、そのとらわれから解放され、また主が尊く用いてくださるのです。
自分自身を主にささげ、「私はあなたのものです、ご自由にお用いください」とささげていく時に、自分の健康や弱さ、人からの評価などへのとらわれから解放されていくのです。
ささげたからといって、ささげた物が消えてしまうわけではありません。
見える形は同じでも、主に聖別されたものとして新しい関係になっていくのです。
私たちの荒野のような場所も、その根底にある人間関係や事態、とらわれていることも、主に明け渡し、ささげていく時に、また新しい主のみわざが起きていくことでしょう。