「ソロモンの祈り(1)〜罪の赦しを求める祈り〜」   
                      T列王記8:22〜40


22〜26節

神殿建設が終わり、ソロモンは主の祭壇の前に立ち、全集団の前で両手を天に差し伸べて祈ります。
まず「イスラエルの神、あなたのような神は他にありません」と、神の偉大さをたたえます。
そして、神が父ダビデに約束されたことがその通り実現したことを思い、神の真実をたたえます。
悪いことはいつまでも覚えていますが、感謝なことは忘れやすいのです。
だからこそ、このように節目ごとに、主のみわざを覚えて神を礼拝し、感謝をささげることは大切なことです。


27〜29節

神はどこにでもおられますが、ソロモンは神の偉大さを思うと、地上さえも小さなもの、ましてこの神殿など、小さな小さな建物に過ぎず、このようなところに神は住まれるだろうかとさえ思えるほどでした。
「せめて私たちが神殿から祈る祈りを天から聞いてください、御顔を私たちに向けてください」と、神の偉大さの前にへりくだっています。
また神殿が何よりも神を礼拝し神と交わることが優先されることを意識しています。


30〜32節

「祈りを聞いてください」とともに、「赦してください」という祈りが、ここから続きます。
聖なる神の御前では、私たちはどこまでも罪の赦しを求める存在です。
神の義、その正しさの前では、「神さま。
こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と取税人のようにひざまずいて祈るしかないのです。
「神なのだから、私の祈りを聞きなさい!」というのは、造り主と造られた者との立場が逆転しています。
本来罪にまみれた私の祈りなど、聖なる神に聞いていただけなくても当然なのです。
聞いていただけるなら、それは神のあわれみと赦し以外にはありません。
ですから自分の罪を思うなら、「私の祈りを聞いていただく資格など全くありませんが、それでも神さまあわれんでください、私の罪をお赦しください」と祈らずにはいられないのです。
ソロモンは、神の約束どおりに神殿が建てられたことを感謝し、それが決して自分の力によるものではなく、神の真実とあわれみによることを思い、同時にその驚くべきみわざを見て、自分の罪深さを思ったのでしょう。
ペテロがイエス様の奇跡を目の当たりにしたときに、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」(ルカ5:8)といった時の心境にも似ているかもしれません。
また人の誓いは真実か嘘か分かりません。
知恵あるソロモンでしたが、神が人の誓いの真偽さえも判断して、正しく裁いてくださるようにと祈り求めています。
おびただしいイスラエルの民たちを治めるための知恵を祈り求め、神からその知恵を与えられたソロモンでしたが、なお神の助けと知恵なしには、何一つ判断できないことを認めています。


33〜40節

ソロモンは、続く祈りの中で、明らかに自分たちの罪の結果で
@ 戦いに負けたとき
A 天が閉ざされて雨が降らない日が続くとき
B 飢饉、災い、病気に見舞われたとき

にも、民の罪を赦して助けてくださいと祈ります。必ずしも、これらのことが具体的な罪の結果起きるとは限りませんが、特に痛みや試練を通して、普段は顧みなかった自分の罪や真実の姿に気づくことがあります。
その時には、自分を責めたり罪悪感に苛まれることもあります。
だからこそ、唯一罪を赦す権威をもっておられる神に赦しを祈り求めるのです。
でもキリストが私たちの罪の代わりにすでに十字架上で罪のいけにえとしてささげられていますから、どんなに罪の現実を見ても大丈夫なのです。
もう私たちのすべての罪は十字架で釘付けにされているのですから(コロサイ2:13〜14)、「赦してください」の祈りは、そのまま「キリストの贖いによる赦しを感謝します」という祈りとなっていくのです。
ですから安心して、自分の罪を認め、「私の罪を赦してください」と祈ることができるのです。
神は今私たちの祈りを聞いていてくださいます。それはキリストのとりなしによって、罪が赦されているからです。
キリストの御名によって、どんなことも大胆に祈っていきましょう(ヘブル10:19)。    



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